希 望 の 光

(ゴールデン・ストランドよりM)

 

 彼らは1905年以来善行を重ね、1910年のクリスマスからは、極めて特別な【希望の光】運動を続けた。

 彼らが分け与える“希望の光”は、形のないものであり、極めてその成果が測り難いものだった。それは、あなたがそれにのめり込まない限り実らず、あなたがそれを表さない限り存在しない、愛のようなものである。現在この委員会は、クラブの全会員である約800名の人で構成されている。小回りのきく組織として便利なように、小さな一団が実際の権限を持っており、その他のすべての人たちが行動に参加する用意ができた時に号令をかける。

 

【希望の光委員会】は1910128日のクラブ例会で、最初の活動に入った。リーダーの一人が立ち上がって、

「サンタクロースの存在を信じる人は手を挙げて?」

と会員に尋ねた。驚くべきことには、全員が手を挙げた。

「よろしい。」

 リーダーは、微笑んでいる人たちに、同じように微笑みを返しながら言った。

「しなくちゃならない仕事がある。あなた方はたくさん、罰金を払わなくちゃならない。もしもあなたがサンタクロースに出会ったのに、罰金を払うことを認めなければ、あなたはこのクラブをやめなくてはならない。」

 これらのロータリーの“素晴らしい仲間たち”は、そのクリスマスに、何百人もの大変貧しい家庭に“希望に光”とでも言うべきものを運んだ。彼らは一生懸命罰金を払ったので、年を追う毎にその成果は大きくなっていった。

1914年には、クラブは、“希望の光”の活動を指導するための常任委員会を作った。委員長は、奇しくも、ブッシュ&ゲルツ・ピアノ会社のマネジャーであり、サンタクロースの信者でもある、エネルギッシュな若者だった。彼の名前は、BO.ことバイロン・ジョンズであった。

 

記録によると、彼のグループは最初、“救助委員会”と呼ばれていたが、その名前はふさわしくないと思われたので、“慈善救助委員会”に変更されたものである。

そこで1922年に、B.O.と他の者たちは、慈善とか救助という言葉は、誇り高き受益者に恥ずかしい思いを抱かす可能性を言外に含んでいるので、もう少しへりくだった方が良いと思うと、クラブにおずおずと申し出た。そして委員会は、役に立つ活動の努力を、厳密に慈善や救助に限定しない方向にも広げていった。会員たちはB.O.に尋ねた。

「何か、いい名前が思い浮かばないの?」

彼はすぐには答えられなかったが、代わりに一人の友人が答えた。

B.O.は陽気な性格だし、ニーズがあれば、希望を失った人たちのために、クリスマスのご馳走とか思いやりというような希望の光を、クラブに代わって配って回るのだから、【希望の光委員会】と呼んだらどうだろう。」

 単純な名前だったが、彼らサンタクロースの信者はこれに賛成してうなずいた。何れにせよ、無邪気な時代だった1922年にさかのぼった話である。彼らは、今や親切心と優しさが時代遅れになったことを、知る由もない。

 

ロータリアンは1966年においてさえ、“希望の光”が時代遅れであることを認めようとはしないし、この何十年来、彼らは正しいと信じ続けてきたのである。B.O.ジョンズは、当事【希望の光委員会】と呼ばれていたこの委員会の委員長として、1958年に彼が死ぬまで奉仕した。

彼は生きている伝説的な人物になり、形の良い白いあごひげを伸ばし、太鼓腹に赤いスーツをまとい、愛想よい笑顔で、ホッホッホと笑った。しかし、彼はまた能率的でもあり、その委員会活動のために、その活動をこよなく愛する数百人のロータリアンの小妖精たちを定期的に駆り出した。

 

例えば、はるか1918年にさかのぼれば、B.O.は彼らと共に、一籠当たりおよそ40ポンドの食べ物を126の籠に一杯詰め込んで、更に多くの衣類とおもちゃの籠と共に、クリスマス・イブ貧しい家庭に届けた。

 

小妖精たちがヘンリー・ポールの店の地下室で、昨日から作業を続けていたその籠の中には、名声と富を誇るたくさんのシカゴっ子の心が込められていた。みんなは自分の上着を脱ぎ捨てて、腕捲りをしていた。シカゴで最も大きい投資会社のある共同経営者は、りんごの木箱を開けようとして自分の手をひっかけ、血だらけの怪我を自分のハンカチで縛り上げながら、真夜中まで働き続けた。パン、キャンディー、果物、缶詰、見事な牛肉の大きな塊などのすべてが、各々の籠に詰められた。

 

雪とみぞれが降り始めたが、これらの純真な信奉者と夫人たちは、たっぷり翌日の午後まで、その上更に、それらの籠を配達するために、大吹雪をものともせずに、彼らのやり方で奮闘した。

希望の光? あなたがいかに頭が良くても、飢餓に直面することなしには、それがどのようなものなのかを想像することは出来ないだろう。

 

ニーズは想像していたよりずっと大きく、彼らがその年に元気づけた人たちは700人を数えた。希望の光委員会に実際に贈られた現金は459.90ドルに過ぎなかったが、ロータリアン自身からの贈り物の商品が、次から次へと運び込まれてきた。時間とエネルギー以外のどんな物でも寄贈するようにと、頼んだ人は誰もいなかったにもかかわらず、品物は自発的に集まってきた。

 これが、すべての年に当てはまるこの委員会の活動の一般的な形であった。

 

B.O.ジョンズは、毎年11日になると、次のクリスマスの計画を立て始め、感謝祭までには、よく組み上げられたすべての詳細と全員の役割分担を作って、彼の助っ人たちが熱心にとび回りながら活動するように、経験豊富なむち打ち鳴らした。

 

しかし、クリスマスに関する活動のみで、彼やこの委員会の時間のすべてを消費していたわけではなかった。クラブにおける彼の44年のほとんど毎日、B.O.は誰かを助けるために、どこかに行く途中であった。例えば1918年のクリスマスの数日後、彼はクラブに“ベルギー向けの靴”を訴えかけた。その場所における戦争被害者は裸足であった。

 B.O.は樽を用意して、紳士用、婦人用、子供用の使用可能な靴を入れるように、ロ−タリアンや他の人々に頼んだ。彼の話を聞いてくれるあらゆるグループや個人に、10個の樽を一杯にすることを目標にして、頼み続けた結果、彼は100樽分の靴を集めることができた。

 

B.O.と委員たちは、数百以上にものぼる貧しい家庭に、サンタクロースとして奉仕をして、彼らの評判は広がっていった。193012月の中旬のこと、彼はアイオワ州ワシントン郡の農家の一団から電報を受け取った。

「処理済み鶏肉1,000匹分をシカゴの冷凍倉庫に送る。最適な場所に配布されたし。」

 アイオワ州の実業家たちが鶏を下拵えして、納入してくれた。

希望の光は他の州からも殺到し、姉妹クラブの関係が作られた。さらに、1930というのは、殆どの人が貧しさを感じた、簡単には通り過ぎてくれない深刻な不況の年であった。

 

この委員会の“希望の光”をもたらす実例は無限に続けることができた。すべての事柄が、皮肉屋たちを不愉快にするような「心を打つ物語」に類するタイプのものや、慈善に関するものではなかった。

いくつのユーモラスな、こっけいですらある実例もあった。1950年代の終わりの、ある忘れられない例は、はるか彼方のオーストラリアに住んでいる、牧師のロータリアンと彼の妻に関するものであった。

 

彼らの愛すべき若い娘が、看護婦の研修を積むためにシカゴにやって来ることになった。だが、シカゴは! 何ということか! そこには、ギャングや凶悪犯や強姦犯や酔っぱらいや殺人犯以外の人は誰も住んでいないのである。

善良なる牧師と彼の妻は、それを立証するために、シカゴに関するすべての本を読み、映画を見た。それなのに、彼らの娘は勉強するために、そこに呼ばれているのである。彼女がシカゴ空港から彼女の病院の安全区域にたどり着く途中に、重大な危険が潜んでいることは、ほぼ間違いなかった。

 そこで両親は、シカゴ・ロータリークラブに彼女を紹介する手紙を書いた。しかし、そこで、彼らは手紙を半分に破いて、一方に次の言い訳を付け加えてシカゴに郵送した。

「どうぞ、彼女を病院に安全に案内できる付き添い人として、彼女に会ってください。彼女はあなたに送った手紙の残りの半分を持っています。彼女にあなたが持っている半分を示して、二つを合わせて下さい。そうすれば、彼女は、あなたが誰であるかが分かるでしょう。」

 何と素晴らしいことか! まさしく映画そのものである。しかし、ロータリークラブはその要請を受け入れて、その手紙の半分をB.O.に渡して、彼に、紳士として振る舞うように命令した。満面に笑みを浮かべたB.O.は、落ち着き払って、それを持ってその場を離れた。

 

これらの“希望の光”活動は、いまや現実に、シカゴ・ロータリークラブのすべての生活を豊かにする、広範囲にわたる奉仕活動の一部としての、奉仕の冒険を形づくっていた。

要望の多くは、シャーマン・ハウスの本部からの幹事シュミッティ自身によって、またはクラブの他の名も知られていない個人によって捌かれた。しかし、永い年月にわたって、B.O.は【希望の光委員会】の精神を導き続けた。 

 

1935年までは、 ロータリアンはB.O.が【希望の光委員会】の主のようなものであることを、当然のことと考えていた。しかし、そうではなかった。ある日、彼らの1グループが、どのようにして感謝の念を述べるべきか知りたいと思って、ラウンド・テーブルで彼について話し合った。

 誰かが言った。

「彼は、町中の病院と家庭に“希望の光”を運ぶために、自分の自動車をぼろぼろにしてしまった。」

「それは困ったこと(足legs)だ。」

「困ったこと(車wheels)だ。」

「それでは諸君。我々はどうしたらいいんだ?」

 

他の者が尋ねた。次の火曜日、B.O.がロータリーに出席するために、シャーマン・ハウスに入ってくると、ピカピカに光った新しいセダンがロビーに置かれていた。たぶん彼は、それを憧れの眼差しで不思議そうに見てから、例会場に歩を進めたに違いない。そこで彼らは、彼にそのキーを渡した。善意の活動家が、善意の活動をしたのである。 

 

現在の【希望の光委員会】は、その最初の名称である、1914年の救助委員会とは大きく様変わりしており、年ごとに影響を受けて成長し、現在では大きな範囲にわたる活動をしている。それは直接的に責任を持つおよそ20人のメンバーを有しているが、もしも何事かが起これば、クラブそのものが、全体として【希望の光委員会】の母体になってしまう。本来の委員会は、シカゴの北と南と西の3つの大都市圏の管轄によって、3つの小委員会に分けられている。

彼らは、ロータリーの“血沸き肉踊る”と呼ばれている、そのような雄大で変化に富んだ人道主義的な奉仕を続けている。