一 族 の 問 題

(ゴールデン・ストランドよりL)

 

 最も大きい問題の一つは、ロータリー自身の拡大をすべきかどうかという問題であった。1905年には、ポール・ハリスと一握りの友人たちは、たぶん、複数のクラブを開拓することを夢見てはいなかったであろう。それから2年にわたって、彼らは主にその運営と成長に専念してきた。そこで突然、1908年に、2番目のクラブがサンフランシスコで誕生し、1911年の終わりには、新しい全米連合会は30以上のクラブを擁し、10以上が加盟を待っていた。この6年間における拡大は、まさに驚くべきことであった。

 

溢れ出るほどの子供を持つ母のように、シカゴ・ロータリークラブは有能というよりは、むしろ困惑していた。

 たぶん簡単に解決されたはずの事例に、一つの大きい問題が起こった。それは“身障児活動”であった。我々は、湾曲した足や捻れた背中や包帯を巻いた身体の子供たちの光景に、あまりにも多く接してきたので、理屈よりも感情に比重をおいて行動する傾向がある。これに対する大きな圧力こそ、ハンディキャップを持った子供への運動を確立することであり、シカゴの最初のロータリークラブの主な目的は、これに勇敢に立ち向かうことであった。 

 これらのクラブは、これをロータリーの主な目的として、明らかな少数派のささやかな希望に、仄かな光を灯した。

 

もう一つの不確実なことがクラブを悩ました。世界中で会員を構成するクラブとして、何をするのかを定義する国際ロータリーからの発表がまったく来なかったことである。6つの綱領(後に、四つに改訂され、その後更に、四つの部分から成る一つの綱領に減らされた。)は、ロータリーにおける個人の役割だけを配慮していた。多くのクラブは、クラブ自らの責任と特権の正確な限界を知ることを強く望んだ。

 

考え方が違う二つの流派が、しのぎを削り始めた。

一方は、ロータリーは団体活動を通じた方が、最善の奉仕ができると主張した。クラブそのものが、地域社会を最大の拠り所とし名声を担っていることを、この一派は指摘した。

 もう一方は、ロータリーにおいて経験と訓練をつむことが、必然的に、自分の地域社会やいろいろな場所での奉仕活動に関する会員の能力を増大させると、強く主張した。

1916年早々には、アレン・アルバートがシンシナティ国際大会で、これを国際ロータリー会長の年次演説のテーマにした。

 

その間に、マザー・クラブの人たちは益々対立が激化して、混乱を深めていった。誠実さの欠如とか、利己的の要素などというものではなく、単に意見の真面目な対立であって、みんなに関わる問題として、どこの場所でもよく悩まされることである。

 

問題がそのように事をゆがめて、大きくなっていったので、その件は国際ロータリー理事会の頭痛の種になった。 とにかく、何かしなければと言うことで、この理事会は“役に立たない決議”を採択した。

決議の文言によれば、国際身障児協会は責任を軽減されて、その仕事はすべてのロータリーの主要な活動とし、これのための特別な部門を国際ロータリーの本部に置いて、活動の資金にするために、会員一人当たり1ドルの人頭分担金を、すべてのクラブに対して課すというものである。

 

理事会によるこの行動は、シカゴクラブの癇癪玉を爆発させた。一人の長老が述懐している。

「身障児を援助することに反対する人は、誰もいません。しかし、我々が決定すべき問題をR.I.が決めたことに対して、多くの人たちが反対したのです。」

 それは、19236月の、セントルイス国際大会で解決する必要があった。

 

そこで、シカゴ・ロータリークラブの人々は真剣に対処した。ポール・ウエストバーグがクラブ会長に決定し、チャールズ・ニュートンが会長エレクトになった。彼らとパスト会長及び国際ロータリーの会計でもあったラッフス・チャピンは、クラブ代議員として大会に参加した。

チャピンは偶々、ロータリーの世界の強烈な場面に出くわしたのである。彼は財政通であっただけでなく、クラブ週報ジレーターに詩や文章を書くという鋭い機知を持っていた。皆は、身障児に対する方針を巡って、クラブが分裂する可能性を心配して、事の成りゆきを見守った。

 

シカゴにおける最初の事業として、ハンディキャップを持った子供たちのニーズの調査を市全体に広げるために、クラブがちょうど最初の【身障児委員会】を任命したところであった。従って、賛成派の感情は強硬であった。

 チャピンやウエストバーグやクラブの理事たちは、それほど感情的ではない態度を取った。彼らは、国際ロータリー理事会が原則に関する問題を取り上げることを強く期待したし、それがこの問題の本質でもあった。

 

社会奉仕活動の選択はクラブにあり、またはチャピンが言うようにクラブの選択肢の一つになり得る柔軟性があるからこそ、ロータリーがロータリーであり続けられるのではないのか?

 

忘れてならないことは、既に国際ロータリーは、別の目標である“青少年の中での活動”を自ら設定していたことである。それを進めるために、国際ロータリー本部にはその部門が設けられており、会員一人当たりの人頭分担金が考えられていた。今や、身障児のための奉仕が義務となることが懸念された。

 

チャピン、ウエストバーグ、ニュートンや他の人たちは、

《ロータリーの綱領に明確に規定されていない如何なる事業の計画や、如何なる活動でも、これを慎むことがロータリーの方針であり、どのロータリークラブも、国際ロータリー以外のクラブや如何なる組織の下部組織になってはならない。》

という基本項目を提案して、決議に反対する案を起草した。

 

この反対決議は確かに物議をかもすものであったが、クラブ会員の前に冷静に提案され合理的に説明されたので、満場一致で採択された。そのことは提案者を驚かせたが、再びクラブが足並みをそろったことを喜んだ。

 その間にも、活発な討論が大会決議委員会の場で闘わされていた。重要な方針として、ハンディキャップを持つ子供たちを援助しようという決議と、これに対立するシカゴ・ロータリークラブの双方が、机上に並べられた。政治的に有名な伝統的な“紫煙が充満した部屋”において、人々は信念をもって、時には荒々しささえ加えて話し合いが続いた。

 

そのような場合に政治的な解決法としてしばしば起こるように、どちら側にも華が持たされて、結局、両方の決議を撤回することが了承されて、その代わりに、 委員会には、“ロータリーの綱領に基づく諸活動の方針を確認し、国際ロータリーとロータリー・クラブの将来の指針となる一定の原則を確立する” ための、まったく新しい決議を立案することが命令された。

 

それは、決議委員会のウイル・メーニァ委員長とポール・ウエストバーグの2人からなる委員会であり、すべてのグループが、2人の人間だけでそれを成し遂げることができる考えほど、充分な信頼を持っていたという証拠でもあった。 

 その信頼が正しかったことが証明された。メイニァとウエストバーグは、彼らの新しい草稿を作り上げるのに、まるまる二日間を費やした。新しい決議は大会で皆に披露されて、修正することなしに採択された。

 

それはクラブの“自治権”という伝統的な形を作り上げた歴史的な瞬間であったが、シカゴ・ロータリークラブは勝利の勝鬨をあげることなく、静かに賛成と感謝の意を表明した。決議は全部で1,000語を越える言葉から成っているが、その鍵となる条文として、幾つかの文章を引用してみたい。

 

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 個々のロータリークラブは、要請を受けかつ地域社会にふさわしい、綱領に基づいた諸活動の選択に関して、完全なる自治権を保有する。

国際ロータリーは、一般的に、クラブに配慮した有益な提案をすることによって、そのような諸活動を研究し標準化し開発することができるが、いかなるクラブのいかなる綱領に基づく諸活動もこれを命じたり、禁止したりしてはならない。

一般的なこととして、ロータリー・クラブは、いかに賞賛に値することであっても、支持した事業について、クラブが準備しその責任のすべてあるいは一部をとる意思がない限り、いかなる計画も支持すべきではない。

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 このようにして、国際ロータリーとマザー・クラブであるシカゴ・ロータリークラブは、歴史上重要で、決定的な転換点に到達した。それは注目すべきことであった。何故なら、初めて地域社会における個々のクラブの役割がはっきりと定義され、クラブ各々の運命を自由裁量権に委ねることが決定されたからである。

 

ロータリーの分割された地域は、最初は、“地域 divisions”と呼ばれて、八つあった。1915年には、その用語は“地区districtsに変更されて、それぞれを管理する役員は地区ガバナーdistrict governor)と呼ばれた。

シカゴ・ロータリークラブは第8地区に属し、直前クラブ会長のハーバート・アングスターが、最初の地区ガバナーであった。彼の地区はイリノイ州とインディアナ州から成っていた。