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道 徳 律
(ゴールデン・ストランドよりK)
シャーマン・ハウスのクラブ事務局に、約3×4フィートのサイズで、金糸で刺繍され、純白の絹で作られた美しい旗がある。これは東京・ロータリークラブからの贈り物であって、極めて重大な意味を持つものである。旗の上に浮かび上がった素晴らしい手書きの日本語は、宣言であり、指針であり、重大な契約であり、良き意図と決断の集約であり、たぶん、今まで記録されている実業家のための最も重要な指導要綱でもある。
この贈り物は、1926年に彼らのもとに到着し、シカゴのロータリアンが所有するかけがいのない宝物となっている。この一つの事例は、人間が持っているよい性格または、少なくともそれに憧れるという特性を示す証拠でもある。
しかし、それはまた、このクラブの職業奉仕の理念に到達するための道しるべでもあった。
この言葉は、最初、1917年の会員名簿に印刷された。しかしながら、我々は、幼稚で意味のない問題が若いクラブにまとわりついて、世界大戦やその他の国内や地域社会に山積する問題に対処しきれなかったことを覚えている。
従って当時は、印刷された規約の効力は充分に発揮されなかった。その効果は分かっていたものの、クラブの職業奉仕プログラムは今やっと始まったばかりであった。
しかし、後年になって、“倫理訓”の重要性が非常に深まってきたので、その後の物語は魅力的なものになってきた。10歳の少女の答えを想定してみよう。
ロータリアンである彼女の父は、額に入れたその道徳律の印刷物を彼の家の書斎の壁にぶらさげていたので、彼女は彼にそれを説明するように頼んだ。
「私たちが物事をするときの方法について、書いたものなんだよ。」
彼は不充分な説明をした。
「それじゃ、それは、厄介ごとから私たちを守ってくれる、アメリカ合衆国の憲法みたいなものなの? おとうさん?」
それは明快な要約であった。ロータリーは単に、宣言や目的やスローガンを持っているだけではなく、どのようにして個々のロータリアンが指針を実践に移すかという、きちんとした事前の設定がなされていた。それは不注意と無関心から我々を守るもの、要するに定款である。
たとえ実際の表現が、一瞬の閃きから湧き出たとしても、彼らは経験や観察や研究の深さのせいにする。我々は、ロータリー道徳律をポール・ハリスの幼年期にまで遡って追跡することができた。祖父がどのようにして、彼を人に頼る人間ではなく、自立する人間に育て上げたかを思い出してもらいたい。必然的に、彼は崇高な理念を教え込まれたのである。
このようにして、1913年にバッファローで開催された、第4回国際ロータリー年次大会の時までには、高潔な考え方が優位を占めるようになってきた。
その大会は“インスピレーションの大会”と呼ばれて、歴史的なものとなった。基調演説はミネアポリスのアレン・アルバートによって行われ、彼の言葉のいくつかは、人々の意識の中に永遠に焼き付けられた。
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他のロータリアンに対して人為的に制約を加えることで、ロータリアン同士の取引を制限しようという試みは、利己的なものを更に大きくする試みでもある。
個人の利己主義は非常に浅ましいが、組織された利己主義は、ロータリーにおけるすべての衝撃的なことの中で、最も不愉快なことである。効率の改善や性格の強化こそ、ロータリーが将に意図し、目的とする急務である。
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アルバート博士は、割れんばかりの拍手に演説をしばしば中断されたが、歓呼の声に応えて着座した。彼の演説はまた、多くの目先の利く人たちの考え方に照準を会わせていた。
ロータリアン個人個人がどのようにして指針を実行に移すべきかを、事前に正確に設定した上で、述べる必要があった。そこで、会議が終わるまでに、委員会は、特別な道徳律を作って、1年後にヒューストンで開催される次の大会に提出するために準備することを命じられた。
新しく任命されたアイオワ州シューシティのロバート・ハント委員長は、広範囲にわたる実業家のための道徳律として具体的に示すべき事項について、ロータリアンからの提案を要請したところ、数百にものぼる返事が帰ってきた。
それぞれが、違った考えを持っているように思われた。時間はあっと言う間に経過し、委員長はその地位を譲って、別の街に引っ越した。実際に記述をするに当たって、ほんの数週間しかその職に留ったに過ぎないという絶望感を持ちながら、彼は文書を作製する作業の大部分を、シューシティの牧師であり、そのクラブの会員であるパーキンスに譲った。
パーキンスは何人かの身近な友人を呼び集めて行動を開始した。彼らは文書の大きな山の中から、約5,000語にものぼる最初の草稿を書いた。この原稿は、ヒューストン行きの列車に乗り込む時に、彼らが持ち込んだ。
彼らの乗っているアイオワからの客車は、カンザスシティで、シカゴからの大会特別列車に連結された。彼らは、偶然、ハーバート・アングスターという名前のシカゴ・ロータリークラブの背が高くて、肩幅の広く、微笑みをうかべている会員と会った。
アングスターは言った。
「やあ、君たち。私にいい考えがあるよ。私の後についてサロンに来ませんか。あなたの手伝いができると思います。」
実は、これは完全にお膳立てされたものであった。彼らは感謝の念をこめて、部屋の提供を受け入れて、コートを脱ぎ、ネクタイを外し、袖をまくり上げて、テーブルの周りに座って、一心不乱に長い原稿を書き直しはじめた。
彼らは使用済みの封筒の裏やノート・パッドやスクラップ・ペーパーに至るまで、見つけることができるものなら何にでも書いた。清書用に誰かが、列車に備え付けの、7枚の綺麗な便箋を探してきた。燦然と輝くプロローグは、ジェームズ・ピンカムが基本的な考えを策定したけれども、グループの一員であるジョン・ナトソンという人の偉大なる労作であった。最終章である第11章は、その作者がより精通していたという理由から、彼の母国語であるドイツ語で作られた。
ロータリー道徳律の最終版のみならず最初の草稿を書く時から、パーキンズが援助を要請したシュウシティ・ロータリークラブの最初のグループに含まれていたのは、フランク・マーフィー博士、オーガスト・ウィリッジス、ジョン・ナトソン、ジェームズ・ウィットモア、トーマス・ハットンであった。
彼らが最終原稿を握りしめて、ハーバート・アングスターに大声で読んで聞かせた時には、大会特別列車はヒューストン郊外のレールの沿って「ガッタン、ゴットン」と走っていた。
偉大なるハーバートは思慮深く、これに裁定を下した。
「素晴らしい出来映えです。私はこれが気に入ったし、シカゴの私のクラブも、すべての大会代議員も同じだと思います。あなたがたは自慢すべきです。」
ハーバートは列車のサロンを後にして大会に参加し、彼の予言が立証されるのを聞いた。その1914年の代議員会は、提案されたロータリー道徳律を完璧なものと見なした。それは、記念すべき圧縮の作業によって、5,000語から約500語までに縮められていたのである。
ヒューストンにおいて代議員たちは、すべてのロータリアンにこの短い道徳律を送って、研究するように命じ、1年後にサンフランシスコにおいて、大会代議員たちは、ヒューストン行きの列車で汗だくになって走り書きをした一語一語をほとんどそのまま採用して、公式な道徳律とした。
その後40年間にわたって、ロータリー道徳律は、この組織の誘導燈のような存在であり、日本語や中国語を含む多くの言語に翻訳されて、今なお世界中のロータリアンの事業所の壁に掛けられている。
1952年に国際ロータリー理事会によって、その実質的な普及は中止されたが、合衆国憲法のように、未だに力強く、ニーズに答える参考例として機能している。多くの新しいロータリアンたちは現実的なものとしてそれを記憶しているに過ぎないが、古いロータリアンは無意識に、それに依存している。
彼らが1917年に、会員名簿にその文章を最初に印刷して以来、シカゴ・ロータリークラブの人々は、その場所を名誉あるページとしてきた。
シカゴの人たちは、ここに本当の精神的な支えがあるとされる、この道徳律が、驚くほど不釣り合いな職業奉仕プログラムと同類であることを、痛いほど実感していたが、世界中の何千人もの他のロータリアンたちの多くは、それを作り上げていった努力の重要さを認識していない。この道徳律が与えた衝撃は果てしないものがあった。ある有名な部外者は語っている。
「それを書いた人には最高の栄誉が与えられるべきである。」
時が過ぎるにつれ、その美しく表現された道徳律は、委員会の会議における引用文や新しいクラブ会員の教育に当たって、成文化された法律として見事に役立った。しかし、人々はまた、日夜を分かたず直ちに、彼らの考え方に正確な目標を定めることのできる、気の利いた言い回しで、簡単に憶えられる要約として、簡略化したものを必要としていることが徐々に分かってきた。
彼らはそれを手に入れた。
事実上、それは道徳律ではなく、正式な声明文として詳しく書かれたものでも、包括的なものでもなく、それの代用品と考えるべきものでもない。むしろ、より使いやすく実用的なものである。
それは、ある新しい委員会が手作業で行うことを命じられたものではなく、次に述べるようにして起こった個人的な作業であった。それは、ひょっとすると、ロータリーを通じて無意識に感化され、精神的に成長した結果かも知れなかった。
シカゴ・ロータリークラブで彼が所属していた、拡大委員会活動によって影響を受けたことは、殆ど間違いないであろう。身障児に対する心温まる成果、青少年開発プログラム、第一次世界大戦に対する全面的な協力などによって、職業奉仕が昂揚するのを見たし、生涯にわたって、その影響を免れることは、殆ど不可能に近かった。
彼の話は記録として残っているものの、クラブ会員の移り変わりのため、多くの会員やほとんどの部外者はそのことを知らない。
その男の名前はハーバート・テーラーであり、1931年における彼のロータリーの職業分類は包装済食品の戸別訪問販売であった。それは、やりがいのある職業であったが、
その年に、ハーバートは意外な事をしでかした。彼は、莫大な借金のために倒産した会社の社長になるために、自分の仕事をやめたのである!
その会社はクラブ・アルミニウム社であった。もしその操業が止まれば、250人の従業員が仕事を失うに違いなかった。
つまらない人ならば狼狽しただろうが、今や、ハーバートは、彼にとって論理的だと考える道を選択した。当時、書き留めた彼自身の言葉で、彼にそれを語らせてみよう。
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この状況に立たされた我々が勝ちぬくための方法として、我々が道徳的、倫理的に強くなければならないことを説得した。
私は、それがまさしく大きな力になることを知っていたし、もしも、従業員に正しく考えさせることができれば、彼らは正しい行動をするに違いないと思った。
我々には、会社の誰もが憶えられて、我々が関わる他人に対して、我々が考えたり、言ったり、行動したりするときに応用できる、ある種の道徳的な指標が必要であった。
そこで、ある朝、私は両手で頭をかかえながら、机の前で一生懸命に努力した。しばらく経って、私は白紙に手を伸ばして、頭に思い浮かんだ24語の言葉を書き留めたのである。
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ハーバート・テーラーは1939―1940年にクラブの会長になり、更に、1954―1955年に国際ロータリーの会長を務めた。年が過ぎるにつれ、彼は、彼の24語の言葉が、世界中で魔法のように守られ活用されるのを見て、なお一層驚かされた。
シカゴ・ロータリークラブが最初にその『四つのテスト』のことを耳にしたのは、1939年に、ハーバート・テーラーがシカゴの別のグループで話をした時であった。偶然に、2人のロータリーの会員がゲストであり、彼がクラブ・アルミニウムの話をするのを聞いたのである。
興奮した彼らは、その話をロータリーに持ち帰って、そこでそのことを話した。
影響力の強い販売学専門学校の校長が真面目に言った。
「これは革命的なことかもしれません。何年もの間アメリカは、過酷なビジネス競争の中で生活をしてきました。殆どの取引は、すさまじいものであり、価格をつり上げようとする大企業や独占的な企業体の大きな取引に対しては、買い手は用心してきました。しかし、この『四つのテスト』が果たした役割を見てごらんなさい! 私はそれを詳しく調べてみましたが、『四つのテスト』は、社会的や政治的な問題はもちろん、人々の生活に影響を及ぼすすべての他の関係にも、驚くべき成果をもたらして適用されています。我々はこれを無視することはできません!」
彼の熱狂ぶりは伝染して、クラブ会員全体に広がった。24語の文章は印刷されて、クラブ外の他の人たちにも渡されて、その内容が繰り返し研究され、語られた。
あるロータリアンが委員会の会議で述べた。
「この言葉は格言そのものではなくて、有意義で、使い易いものです。」
これが、この文章に関する合意であった。人々は自分の用箋にそれを印刷して自分の事務所にぶら下げたり、妻や子供にそれを見せるために家に持ち帰った。それは、騒々しいキャンペーンではなく、まさに、成長し続ける静かな訴えであった。
国際ロータリーはこの『四つテスト』を承認し、すぐにそれは、大陸を渡って世界中で使われた。みんなはそれを排他的とか特権的なものではないことを認めた。これこそ、文字どおりに、自分自身に与えられた、すべての人に対するテストなのである。