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個 人 的 関 心
(ゴールデン・ストランドよりJ)
シカゴ・ロータリークラブの主要な委員会の中で、身障児や青少年活動のグループの活動を凌駕するような、特筆すべき活動が徐々に達成されていった。
それは、直接に心を打つような興味深いことでもなく、直ちに感情に訴えかけるようなものでもなかった。
《金を儲ける過程を論じるものであるが、アメリカでは、正直に金を儲けることと他人のために金を使うこととは、同義語に近い。》
それは【職業奉仕委員会】と呼ばれるものであり、そのきっかけとなった話は、1911年にさかのぼる。クラブはかろうじて6歳に達したばかりであり、未だ、成熟に向かって歩んでいる最中であった。
ある日例会で、一人の商売気に富んだ会員が、話しかけた。
「我々は、みんな、売る品物を持っている実業家だろう。そこで、我々の商品の展示会を計画してみたらどうだろうか? 盛大なレディズ・ナイトの集まりを開いて、我々はサンプルを中心となる場所に運んできたらどうだろう。商品をよく調査して、より深い知識を持てば、我々がもしその品物が必要な時には、どこで買えば良いかが分かるよ。」
それは、よい考えだということで、他の人たちも一も二もなくその開催を承諾した。そして、1911年11月23日の夕方に、ロータリアンと夫人たちは、ウエスト・ワシントン通り219のブロックス食堂に入り、うれしさの余り息を弾ませた。
食堂のまわりには、最高の栄誉に輝く製品が並べられた。あるテーブルには、いろいろな種類の蓄電池が置かれていたが、客の多くは、電気が蓄えられるものであることさえ知らなかった。特別に作られた機械類、最新の消火器、光り輝くガラス製品、足どり軽く走る馬のハーネスなどの最新流行の製品が、そこに並べられていた。
「自動車は素晴らしいけど、私の父は、血統正しいもの(馬)を取り替えては駄目だと言うの。」
一人のかわいらしい若妻が敗北を認めたが、彼女の夫は意見が異なり、その件を巡って小さないさかいがあったが、それは、その当時頻発していた単なる議論の一つでしかなかった。彼女は笑ながら、友人を金色の飾りがついた新しい革製の手綱が置かれているテーブルに連れていった。
一連の引き伸ばされた写真は、新しい“無煙の溶鉱炉”について解説していた。別のテーブルには“パリ直輸入”のコルセットとコルセット・カバーが置かれており、男のロータリアンは如才なく目をそらしたが、女性は目を凝らして、うっとりと見つめていた。彼らはまた、宝石の綺麗な新しいサンプルを指で触れ、エキゾチックな香水を嗅ぎ、電気掃除機と呼ばれる、不恰好ではあるが家のカーペットを掃除するための新しい機械への好奇心について、大げさに喋った。事実、それは汚れを吸い上げて、飲み込んだのである!
展示会の成功が、他のシカゴの実業家の注目を浴びたというニュースは、非常に印象的だったので、この話は1912年にも語り継がれた。結局、クラブの人たちは規模を拡大して、一般の人にも公開して、2回目の催しを開会することを決意した。
そこで、1914年1月30日に、“ロータリー産業展示会”が、コンチネンタル・コマーシャル・ナショナル銀行ビルの16階で開催された。
入場料は無料だったが、ロータリアンが奉仕の機会として、この催しを捕らえたことが重要であった。彼らは、出品物のスペースごとになんと5ドルを支払ったのである。(彼らは100ドルでも支払ったに違いない)。
彼らが、シカゴの貧困家庭や失業者の救援機関に、このようにして集められた金を回したことがさらに重要なことであった。
2度目の成功によって、直ちに3度目のショーが計画され、1915年12月にシャーマン・ハウスの中2階で開催された。この時には、高価な事務用機器から焼きたての朝食用ロールパンに至るまでの165の出品物があった。
ここにおける一つの特徴が【ロータリーの樽】であった。来訪者は、“クリスマス援助計画”のための金を樽に入れることを、それとなく勧められた。人々はすこぶる寛大であった。150以上の貧困家庭に食物や衣類やおもちゃを提供するための充分な資金が集められた。
このようなものこそ、成長していくプロジェクトが出現してきたことの始まりであり、1930年代に盛んになった【ロータリー産業博覧会】の前兆でもあった。
1913年から1914年にかけての平穏な日々に、クラブはまた、“会員の事業所への個人的な訪問”を奨励し指導した。そのような訪問を最も多くしたことを報告したロータリアンに、表彰が授与された。すべては、クラブの会員の事業を盛んにするためにされている、妥当なものだった。
更に、別の“素晴らしい離れ業”が、その時期に盛んになってきて、なお一層友情を深めることになった。
10ドルの小切手が、他のロータリアンから最初に買った品物の代金として、あるロータリアンによって支払われた。そこで2番目の人は、3番目のロータリアンから同じ価格で何かを買うために、更に4番目から買うためにと無限に次々と、それを使用することが義務づけられたのである。
個々のメンバーがしなければならないことは、自分自身で、品物を購入するために友人の店を訪問することであった。楽しみの機会は直ちに目に見えるものになってきた。
「私は弁護士だから、売るような商品はまったく持っていないので、あなた方の一人がもう一人を訴えて、依頼料としてこの小切手を私にくれた場合だけしか、使えない。」
と、弁護士の会員は公然と主張すると、とたんに、牧師の会員が明快に答えた。
「もしも良ければ、順番に私の教会に出席して、裏書きした小切手を私の募金箱に入れるといい!」
店への個人的な訪問は、社会的な注目を浴び、根強い人気を得て、最終的に、“夫人を含んだロータリーの訪問集団”を組織して、シカゴ都市圏の産業プラントへ行くことに繋がっていった。旅行は貸切バスによるもので、会社の食堂での昼食がついていた。
さて、その循環小切手はどうなったのかというと、25名の裏書き人の名前が、利用可能なすべての余白を使い果たした後に廃棄された。しかし、それはいまだに、シカゴ・ロータリークラブの会員間の伝説的存在であり、その離れ業は世界中の何百もの他の奉仕クラブが真似するところとなった。
“職業道徳昂揚”の強調は、1921年に、かつての【職業推進委員会】に変わって、クラブの最初の【職業秩序委員会】が任命されたことによって、重要な転換点に達した。PromotionからMethodsになった、この単語の重要な変化を注目してもらいたい。
《ロータリーはより高い理想を目指して努力していたのである。》
もう、他の会員と取り引きした取引高の毎週の報告書を楽しんでいた会員ではなかった。物質的相互扶助は最後の時を迎えていたが、その終焉は速やかに来たわけでも、静かであったわけでも、また反論の声なしに来たわけではなかった。
たとえ、それが唯一の目的では無かったとしても、相互取引がロータリーの主要な目的だという確信を主張した人々もおり、彼らの声は大きく重みがあることは、最初から分かっていた。
論議の声は全米協議会のホールに響きわたったので、1914年のヒューストン大会で、特別委員会がその事柄について調査研究するように指示され、その委員会には【原理教育委員会】という大げさな名前がつけられた。
委員長は、宣伝と奉仕に細心の誠実さを払ったことで評判を勝ち得たフィラデルフィアのレストラン経営者、ガイ・ガンディカーであった。彼は熱心に新しい仕事に取り組んだあげく、完璧なロータリークラブに関する彼の考えを書き記した“四つのパンフレット”を書いた。
彼は次の事柄の改善を成し遂げるために、ロータリーが組織されているのだと語っている。
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(1) 会員個人
(2) 会員自らの職業
(3) 会員が属する全体的な事業や専門職
(4) 自分の家庭、町、州、国、社会のすべて
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その冒頭に、彼は次の痛烈な論評を書いている。
「ロータリアンの相互取引は、ロータリーの義務でもなく、本質でもなく、ロータリー存在の理由でもない。それは単なる出来事に過ぎない。」
“職業倫理”というこのちょっと新しい概念は、ロータリーの世界に広がって激しく燃えはじめた。
例えば、映画館のオーナーは彼らの会議で、ロータリーが推薦した実行基準に合わせて作られた“道徳律”を、満場一致で採用したし、フィラデルフィアのレストラン経営者を通じて、全米レストラン協会の実行基準が作られた。1924年までに、20以上もの全米協会が同じことを行ったし、個人の事業所は更に一層その動きを強めていった。
そのようにして、職業奉仕は、文字どおりに、クラブが考慮すべき事項の最前線に、自ら躍りでたのである。これはロータリーの自覚と良心の一部が現れたものであり、クラブを、実業界において他に比類のない信望あるものに導くことを運命づけたのである。
4年間にわたって、稲妻が我々の産業界を襲った。その中心となる電撃は、ウォール街に命中したが、それのショックは太平洋岸から大西洋岸まで広がり、破産、不安、困窮、混乱、果ては自殺までをももたらした。
1929年10月に1日あたり100ドルを得ていた人は、1930年10月には1日あたり1ドルを得ることを感謝せざるを得なかった。もちろん、当然のこととして、シカゴ・ロータリークラブの多くの会員たちは、そのぞっとするような産業不振にあい、クラブ全体として、何を為すべきかを見つけるために、緊急会議を召集した。
多くのことがなされ、多くの援助がされた。職業奉仕は? その最も大きい推進力は、この職業奉仕によって勢いづけられたのである。
《なぜなら、人々は文字どおりに、自分たちの動機づけと理念をよく調べてみる必要があったからである。》
古くから信頼されてきた形式の行動は崩れ去り、新しい考え方が必要であることは明らかだった。ステファンスが記念すべき演説をした1933年のその時までに、ロータリアンと世間全体は、その機が熟していた。
クラブは、企業倒産の波を減少させることを試みるために、政府と協力した。多くの会員たちは、“緊急対策理事会”に出務した。1929年に、ハーバート・フーバー大統領は、恐慌を抑えるために期待されている400の国家委員会の一部として、ワシントンに何人かの会員を呼んだ。
2人のクラブ会員、エルマー・エリックソンとハイラム・コディは、その一員であり、
彼らは、高い職業理念によって輝きを取り戻せることを、心から信じていた。
エリックソンは、それ以来、事実上、自分のすべての職業的な活動力を、職業奉仕の新しくてすばらしい理論を説明することに捧げた。彼は、この問題に関する本やパンフレットや書類や文書を広く集めて、数多くの講義や相談を行ったので、クラブからも高く評価されると同時に、全国的な専門家として認められた。
クラブにおける職業奉仕理念の発展は、全国的な道徳律の開発と似通ったものとして、並行して進められた。これらの事柄は、ドラマチックな出来事とは縁遠いものであって、彼らは瞬間的な衝撃や変化をうけるのではなく、むしろ人々に、内面から分析しながら個人的な関心を提起するのである。
“ロータリー取引関係会議”は1939年に実験的に始まった。その考えは、当時アルフレッド・ハークが委員長を務めていた職業秩序委員会から提起されたものだった。
それは、もしも、シカゴ・クラブや地区内にある他の近隣クラブの会員が、自分の殻に閉じこもらざるを得ないすべての煩わしいことから解き放されて、彼ら自身の商売や産業に関連した、労使問題を率直に議論できれば、これがクラブの職業奉仕プログラムを効果的に促進させるのではないかという、委員会の考えだった。
その考え方は、国際ロータリーの【総合企画委員会】の支持を得たものである。“労使関係”、“利益配分”、“消費者との関係”などのような、魅力的な議論がされた。
テーマは“人間的な取引関係”であり、それはディック・ベルナーがロータリーで行った多くの素晴らしい業績のハイライトの一つであった。
彼らはその事実に対峙し、“事業上の指導力”と“職業奉仕”が彼らの間で空文化していることを認めた。
重要なことは、個人個人が、各々の固有の時間内に、実業界のニーズをいかに反映できるのかということである。
批評は大胆ではあったが、一方で建設的でもあった。特定分野の勧告をも含めて、職業奉仕はどのようなものであるべきか、またあらねばならないのか。1934年の報告書は続いている。
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現時点における実業界の主要なニーズは、取引―更に多い取引であることが推測できる。
デフレーションと不況の期間には、いかなる経営者でも、市場を確保し、取引の機会を拡大する努力をいささかでも疎かにすれば、自分の職業やどのような価値ある奉仕理念も、自分自身で正当化することはできない。
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大学の専門化が、個人的な言葉として述べたことは、
「紳士諸君よ、不況の時は、ぶつぶつ言うのはやめて、椅子から離れて、商売に精を出しなさい。」
それは素晴らしい忠告であった。
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ロータリアンは、彼らが生活している時代に、切実に要求されている事業上のニーズを認識すべきであり、事業を発展させるためには、公然と意識的に自らが専念すべき時代が到来したことは確かである。
何れにせよ、“利益”と“奉仕”の調和を図ることが、ロータリーの中心課題である。しかし、ロータリーは一般的に、時代遅れの押し上げ戦術ではなく、取引方法に関する知的で体系的な研究によって、よりよい取引を進めることに専念してきた。取引のない所に、業務上の指導力など存在しないからである。
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彼らの病気を診断されて、「めそめそ泣くのをやめて、よく考え、外に出て、仕事に取りかかりなさい」という、よく効く処方箋を与えられたのである。職業奉仕?ここには、クラブから会員自身に与えられた、職業奉仕の見事な発露があった。
我々が、喘ぎ苦しみながら、やっと腹一杯になった時こそ、アメリカの実業の退潮期である1934年であったことを忘れてはならない。我々には、恐ろしいことは何もないが、そのことだけが恐ろしいと、国に言ってきた。
常識こそが、最も心にしみわたる宣言であることが立証されたので、我々は再び腕まくりを開始した。シカゴ・ロータリークラブの会員は、お互いにしっかりと歯を食いしばりながら、処方された薬を飲み込んだ。
そのようにして、“利益の目標”という高度の概念がついに実現された。昔がそうであったように、些細な相互扶助は認められていたものの、人々は、それを放棄するというまったく別な道を歩んだ。
その時起こった、すざましい国家的不況は彼らの将来を混乱させたが、今や、彼ら自身による購買力の分析は、再び確かな数字を示しはじめた。
利益と奉仕とは互換性をもっていたのである。
従って、ロータリアンは自ら前向きになって、熱心に働き、真面目にまた正直に金を稼ぐべきであり、どのようにすれば同じようにできるのかを、善意の他の人たちに示そうと決意したのである。それはクラブの歴史における偉大な瞬間であった。
明らかに物事に関する古い常識から、急速な転換をやり遂げたことは事実であった。国や州や市の行政や、商工会、労働組合、銀行、商工会議所などはすべて、彼らに暗黙の了解を与えて、次のように告白した。
「1929年10月以来、我々は事業の正しい道を見失っていたが、その新しい展開によって、よりよい将来が約束された。」
遂に、職業奉仕は核心に迫ってきた。
それは、たゆまぬ忍耐によって引き続き30年の間、同じように続いた。常に会員に彼らの崇高な理想を思い出させることによって行動基準を高め、シカゴ・ロータリークラブが、1934年以来受け続けていた非難から解き放たれ、あらかたの病気を快方に向かわせていった。
《今日、責任は、自分の事業を経営したり、自分の取り引き仲間との関係を強化したり、毎日の生活における個人的関係を深める基礎として、職業奉仕の原則を作りあげるために、個々の会員に任せられているものである。》
これまで、そう言った説教は、まったくなされたことがなかったし、道徳的なことを必要としない人など、誰もいなかった。
取引に関する具体的な管理は、長期間にわたって、このクラブの会員に対する重要な要件であった。従って、クラブはそれから離れて、いかにして職業奉仕を適用し、いかにして自分の首尾範囲を通じて、その原理を広めてゆくかを決めることを、個人の自由に任せなければならない。
このようにして、雑誌出版者は、自分の本のレベルを維持するために、自分の雑誌に対する心構えを静かに高めていったし、商工会の管理者たちは、学校における教育者、事件における弁護士、患者に対する医者のように、自分の活動を高めて報酬を得る方法を模索していったのである。
「奉仕クラブは善良な人びとの善意によって組織される」
の言葉は、将に自明の理であり、再びここで立証された。
今や、シカゴ・ロータリークラブの職業奉仕委員会による説明と指導が、クラブに入会しようとする一人の男の前で始まろうとしている。
彼は基本的な理念の幾つかを聞くか、耳にする。彼が入会するように誘われたとき、広範にわたるアンケートを完成させて、これによって彼の良心を証明したり、彼の思考を刺激しなければならないが、入会委員会は非常に力強いものである。
「ロータリーは成功した人たちを引き付け、平凡な人たちを成功者にする。」
彼の言っていることは正しく、クラブは、集まってきた人たちに、指導力をつけるすべを開発していった。
しかし、この思想は単なる尊大な本能ではなくて、個人の本性が強調された、しっかりした影響力や、継続的な教育や人間の内面にあるものの高まりなどの、職業奉仕の雄大な領域にはいっているものであった。
従って、クラブは単に熱心に教え込んだり、影響を与えたりするだけではなく、効果的な理念と指導力の意味を、会員たちが考えて行動するように、促さなければならないと述べているのである。
その上拡大によって、決して今まで、どんな奉仕クラブにも属さなかった数千の人たちが、その訓練を受けることになるのだから、その影響力は決して排他的なものとは言えない。
この広範にわたる、元気づけられた奉仕は、決して素晴らしい取引と矛盾するものではなく、むしろ、悪い取引を良い取引にするために大いに役立つものである。合衆国商務省商道徳勧告協議会の有名な指導者は、その方法を述べている。
「商道徳の基本的なルールは、人間同士お互いの間の道徳的なふるまいについて我々が期待している基準と、いささかも異なるものではありません。」
これは、シカゴ・ロータリークラブによって出された、職業奉仕に関する1960年のテーマ―になった。
「不正直で金を儲けるよりも、却って正直で金を儲ける方が多いことを覚えれば、 人は正直になるに違いないと。」ヘンリー・フォードは言った。
これと同じく、富から得られる幸福よりも、教養から得る幸福の方が大であることを覚えれば、人は教養を取るに違いない。 (ポール・ハリス)