青 少 年 対 策

(ゴールデン・ストランドよりI)

 

 青少年奉仕、すなわちクラブによる青少年活動は、事実上、19201月に開かれた【ファミリー・ナイト】から始まった。その楽しい機会に、シカゴの街に飛び出したクラブは催し物を用意した。

そこで、クラブの青少年委員会の新委員長ミルトン・マックは、シカゴ・コモンズ、ボーイ・スカウト、ボーイズ・ブラザーフッド・リパブリック、ジューイッシュ・クラブを含む、市内の様々な青少年団体の活動について説明した。 

街に飛び出したクラブの会員たちは彼らの組織活動について述べると共に、これらの組織の何れもが、とても装備を必要としていると言っていることをロータリアンが理解すべきであると述べている。

ずいぶん長く議論は続き、クラブの青少年委員会は、

「何が必要であるかということと、確定的な計画についての、具体的な内容を説明すること。」

という指示をだした。それが出発点であった。

 

装備が提供されただけではなく、クラブはシカゴの青少年週間の祝賀行事を企画した。クラブによって完全に資金の手当がされて、オーケストラホールにおいて【ロータリー音楽会】が上演され、4,000人以上もの人々が出席した。

【シカゴ青少年週間委員会】は、名誉委員長としてウィリアム・ホール・トンプソン市長を、実行委員長としビクター・アーリルド判事を任命した。委員には、36人の著名な街の指導者が含まれていた。もし、委員のほとんどがロータリークラブからであれば、意図的なものと言われたかもしれないが、これらの著名な街の指導者の中には、国際ライオンズの創始者であり、事務総長のメルビン・ジョーンズが含まれていた。

市長は公式声明を出したし、イリノイ州の知事レン・スモールは自ら承諾書を送り、出席を約束した。教育委員会のデイビス委員長は支持することを表明した。要するに、すべての人がこれを是認したのだった。

 

19215月のその日の午後に、その儀式は市民の心に感動を与えた。ある新聞は論評している。

「あごを上げ、胸を張って、ベテランの軍人のように揺れ動く5万人のシカゴの少年たちが、彼らの忠誠心や勇気やアメリカ魂を示威するように、ミシガン通りを行進した。彼らは、ロータリークラブによって計画された【青少年週間】の開会式で行進しているのである。それは、これまでこの街で見たことのない、青少年の最も大きな行進であった。」

 数千人の若者と大人は、通りで一体となった。

 このニュースは、アメリカ中を駆けめぐり、多くの祝辞が寄せられた。ある人は述べた。

 

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 今日の少年は明日の大人である。あなた方の青少年週間の成功とそれによって引き出された素晴らしい結果に、最大の賛辞を贈りたい。

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その言葉には、アメリカ合衆国の大統領ウォーレン・ハーディングの署名があった。

 

シカゴ・ロータリークラブの人たちは、誇りと励ましを感じた。青少年週間は際だった成功をおさめ、その後もう2回の同様な催しが、1922年と1923年に開催された。さらに1924年に、そのプロジェクトは、市のすべての若者の団体で作られている、【シカゴ青少年週間連盟】に引き継がれた。

3年の経験によって、どのような組織でも単独では、そのような巨大で、都市ぐるみプロジェクトを試みることの誤りを悟ったので、クラブは、その連合体を組織することを提唱し、その役員と指導者は、ロータリークラブ、商工会、他の市民団体から選抜された。

 

“少年市長”は、35人の他の少年市職員の助けを借りて、一日、市役所に勤務するものである。最初の“少年市長”は1916年に選ばれた。 

 

19192月に、シカゴの人々は若い強盗団による、9歳の少年の残忍な殺害に大きなショックを受けた。そこで、ロータリ・ークラブは、スカウトの活動を拡げるために、10万ドル募金運動の音頭をとるという、“ボーイ・スカウト”組織から要請を受け入れた。これは、事実上、クラブが引き受けた最初の大規模な青少年プロジェクトであった。

 

手続き上の先例もなく、どのように計画するのかという経験もなかった。単に義憤にかられただけで、クラブは充分な調査もしないまま、シカゴ全体が募金運動という疫病に罹っている時期に、その運動を開始した。ゴールはほど遠いものであり、 ボーイスカウト組織自身は割当てを完成したにもかかわらず、目標額のたった75パーセントしか金は集まらなかった。

 

その失敗はもちろんクラブをまごつかせたが、かえって、それはお互いの結束を固めるのに役立った。その後、プロジェクト全体に対して徹底的に注意を払って行動するようになると共に、クラブは、決議34に示されている通り、国際ロータリーがこの点について新しい方針を開発するのを、手助けした。その部分は、次の通りである。

 

「ロータリークラブは、どんな立派な事業であっても、クラブがその遂行に対する責任の全部または一部を負う用意と意志のない限り、その後援をしてはならない。」

 シカゴ・ロータリークラブは、1912年にスカウト運動が開始されて以来ボーイ・スカウトの“ブースター”を持っていた。創立以来、多くの素晴らしい奉仕に尽力してきた。

 

優秀な学生への“大学奨学金”の授与は、永年にわたるシカゴ・ロータリークラブの主要な活動であった。援助を受けた数十人の若者たちは、ほとんど例外なしに、それぞれが選んだ分野で成功を遂げ、ある者は、国家的な、さらには国際的な名声を博した。

1929年の初めに、優秀で貧しい大学生を援助するために、クラブの【学費貸与基金】が募金箱とは別の部門として設けられた。

 

報告書は、ロータリー青少年奉仕(「青少年活動」が徐々に変化した用語)は、ほんの一握りの会員が個人的な興味を抱くようなものではなく、特色があって、手の届かないような真のクラブ活動でなければならないことを、勧告していた。更に、報告書はシカゴの“高校の若者に対する職業指導”に関して、その知識を満たすと思われるようなプロジェクトを推奨していた。

 

「ロータリーは、こういう仕事をするために、作られたようなものだ。」

 かくて、ロータリーの経験豊かなコンサルタントは、クラブの特色ある役割の担い手となった。19503月に、【青少年奉仕委員会】が、シカゴの公立学校の組織全体から、100人を越える校長や職業指導コンサルタントや行政の役人を呼んで、昼食会を主催した時、そのプログラムは大きな絶賛を受けた。この相談会のプログラムはこの短い書式の中にすべてが記述されていた。

 24名の委員の各人が、二つ以上の学校を受け持った。例えばもし、学生が写真製版を学ぼうと望めば、彼がカウンセラーと接触すれば、次々とその学校に関係するロータリーの委員と接触できた。その場合、ロータリアンは、個人的に面接して、その現場を調査した上で、クラブの写真製版会員を適切に手配すればよかった。このようにして、委員は、1万人の上級生と50の学校を扱っていた。

 

1940年には、シカゴ・ロータリークラブの元会長のグループは、街の中で新しくできた、【若年者技能開発協会】の設立を援助した。それは1919年に、マサチューセッツ州スプリングフィールドで始められたもので、その基本的な形式は、実業界における指導力を養うために、優れた訓練を提供するという前提に立った、高校生の少年少女によって組織運営されている、実際の会社であった。

その前提が正しいことが判り、いくつかの会社がロータリアンによって後援され、若年者技能開発がクラブのプログラムとして出現した。様々な“若年者開発センター”によって作られた製品の出品物が、クラブ例会やロータリーの影響下にある他の場所に陳列された。

 

ともあれ、シカゴ・ロータリークラブによって援助された“若年者技能開発活動”が、アメリカにおける最大で最も成功したものとなったことは確かである。 

彼らは、十代の若者に、実際にそこで働くことによって、アメリカの自由な企業システムがどのように動いているのかを学ぶための機会を提供したのである。この活動は現在も進行中であり、1年ごとに参加者を増やしながら、拡大されていることは疑いのない事実である。

 

さて、一方で、シカゴ・ロータリークラブの別のプロジェクトは、“ユースホステル運動”にちなんだものであった。これに対する関心は、1935年に催された青少年活動委員会の会合にさかのぼる。

事の始まりは、インディアナ州、イリノイ州、ウィスコンシン州、ミシガン州におけるユースホステルの結成に、クラブが興味を持ったことであった。ヨーロッパだけでなくアメリカ東部における活動の成功記録が、クラブ理事会によって指摘された。理事会は、委員会に活動するすべての権限を与えた。

 

再び、集中的な予備調査が行われた。そこでクラブは、その委員会を通じて、イリノイ州北部における他のロータリークラブの協力によって、シカゴ都市圏における活動を活性化することを決断した。関心は、国際ロータリー本部と共に、シカゴ地域計画協会、インディアナ州保存局、州ハイウエイ委員会でも高まった。

 これらの組織は共同で、この活動がどのようにしてヨーロッパで広がっていったかを明らかにするために、写真の専門家を派遣した。彼らの代表者の会議で、アメリカ・ユースホステルの顧問団が、その運動を指導しているシカゴ・ロータリークラブの3名の会員によって設立された。

 

シカゴ・ロータリークラブの会員の息女たちは、ユースホステル運動の活発な個人的な中核になり始めた。北部イリノイ州で創立された最初のユースホステルは、パロス・パークにおけるものであり、間もなく次のものが、ウィスコンシン州とミシガン州の湖水地帯に設立された。

 2人の人の活動は飛び抜けていただけではなく、その努力は極めて勇敢で献身的であった。ウィスコンシン州ケーブルの近くに建てられた、“チェス・ペリー”と名付けられた最大のユースホステルは、24人の少年と24人の少女を収容し、家族で使用する部屋を加えて、35,000ドルの費用で建築された。

チェス・ペリーは、クラブの歴史において、最も敬慕されている名前のうちの一つであった。建設費はシカゴ・ロータリークラブの会員からの自発的な寄付者によって、大部分がまかなわれていた。

 もう一人の傑出した人である、シカゴ・ロータリークラブのパスト会長、スタンレー・クラーグは、五大湖地帯のユースホステルの発展を援助するために、長年にわたって奉仕した。

 クラブの青少年活動に関わる多くのすばらしい感動的な実話は、年を重ねる度にたくさん貯まってきた。