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身 障 者 対 策
(ゴールデン・ストランドよりH)
アメリカ人は、個人主義に徹する考えと、チームワークに徹する考えとの、二つの特徴を持つことで有名である。
この2つは相反するものではなく、力の根源であると同時に、未だに非能率的である政府や軍事力や教育や宗教のシステムを、何とかしてもっと効率的なものにしようとする、この国の偉大さの秘密でもある。この2つの特徴は、シカゴ・ロータリークラブによって開発された、非常に効果的な奉仕クラブの委員会組織の構造にも当てはめることができる。
このクラブが存在している主な理由は、見返りを求めない【人道主義】に基づく奉仕である。
委員会は一般的に、【地域社会】と【人道的奉仕】という広い部門の下で分類されている。会員はもちろんのこと、部外者さえも、必ずといっていいほど【身障児委員会】に対して強い関心を持っている。
すべての奉仕クラブの活動が最も素晴らしい花開く分野こそ、この活動なのである。
1920年代の初期、アメリカにおいて、身障児の社会復帰への関心に対する大きな高まりが、3つの別々な無関係な出来事から始まり、そのそれぞれについて、ロータリーは重要な役割を果たした。
1913年にニューヨーク州シラキュースの、かろうじて1年しか経っていないロータリー・クラブで、ある会員が、両親が必要とする外科手術を施す余裕がなかったために身障児となった少女を、クラブの関心を向けるために連れて来た。クラブはその対策を見つけた。
1915年にオハイオ州トレドでは、あるロータリアンが昼食会の席上で、ホテルへ来る途中でたった今目撃した、手足のない10代の少年が、自分で考えだした台車の上で、体に弾みをつけながら進んでいる、信じられない光景について語った。クラブは何かすべきであると考え、それを実行した。
少年に対する処置や手術の手を差し伸べるまでには、何年も掛かったが、クラブが【トレド身体障害児協会】の組織作りに成功するには、そんなに長い時間はかからなかった。
トレドからそんなに離れていないエリリアの町では、親切で、公共心の厚い実業家が、適切な医療処置によってすべての人生観が変わってしまった身障児に興味を抱いた。その少年との交流を通じて、少年は愛情をこめて彼にあだ名をつけた。“ダディ”ことエドガー・アレン、それが彼の名前であったが、彼はその奉仕のために生涯を捧げた。
この3つの出来事の影響を受けて、身障児対策という目的に対して、一部のロータリー・クラブは大きな関心を抱いて活力を与えたと記載されている。
オハイオの実業家たちの、特に立法化の先鋒となったコロンバス・ロータリークラブの支持による協力をうけたダディことダディ・アレンは、1919年に、最初の【州身体障害児協会】の設立という成果をあげた。
【オハイオ州身体障害児協会】が結成されて数週間も経たないうちに、ミネソタ州で2番目の州身体障害者協会が、ミネアポリスのロータリアンの多大な尽力の下に設立された。
多くの都市の市の指導者たちは、初めて、子どもだけではなく大人を含めた『身体障害者の問題』を、大規模な問題の一つとして認識し始めたのである。
その間にも、ダディ・アレンに率いられたボランティアの専門集団は、1921年に【全米身体障害者協会】の設立に乗り出し、彼はその最初の会長を務め、その後13年に亘って献身的な奉仕を続けた。
協会はその分野における先駆者であると同時に、当時における、唯一の国内におけるボランティア機関として身障者のために意見を述べ活動する、他に比類のない存在であった。
さらなる変化が起こった。カナダや他の国々のロータリー・クラブは興味を持ち、世界的な視野から【国際協会】が設立された。結果的に、名称は変更されて、一方は、【身体障害者社会復帰国際協会】、もう一方は、【全米身体障害者協会】になった。両方合わせると、数百万人の身体障害者の巨大で強力な組織になったのである。
シカゴのポール・ハリスの胸を打つ引き金になったのは、ダディ・アレンであった。ポールは自分のシカゴ・クラブを手始めに、イリノイ州全体にわたって、順次行動を広げていった。イリノイ州協会を設立するために、1923年4月にブルーミントンにおいて、州内のロータリークラブからの50人の代表が会合を開いた時に、オハイオから手を貸すためにやって来た人こそ、アレンであった。
その数週前の1923年3月3日に、ポール・ウエストバーグ会長は、シカゴ・ロータリークラブの最初の【身体障害児委員会】を任命した。それは40年以上も継続した、永続性を持った最初の委員会であり、シカゴの身障児の社会復帰と訓練に対して革命的な変化をもたらした。
この委員会が作られた本来の目的は、身障児に対する援助を提供すること、彼らに個人的に奉仕すること、他の機関と協力すること、彼らと接することで身障児のニーズや利用可能な施設を調査することであった。
当分の間は、クラブはこの活動のために年間、1,000ドルから1,500ドルほどの募金を行い、多くの会員が個人的な奉仕を行った。
この期間にはまた、クラブは、少年、少女が必要とする足の締め付け金具を購入するための基金を設立した。ある時には、義足や義手を必要とする少女のことを耳にし、彼女の両親は必要とする金を持っていなかったので、クラブがその代金を払った。
委員会はシカゴ市におけるニーズを調査した結果、問題に対して、迅速に、広くかつ新しい取り組み開始する必要があることが明らかになってきた。ほとんどの機関は、ハンディキャップを持った身障児を援助するのではなく、彼らを特別な環境に拘束しているだけであり、身障児の全貌を知るためには、市全体の調査が欠かせないことに気づいた。
ハンディキャップによって差別されている身体障害は、聾唖と難聴、盲と視力障害、てんかん等々を含む、多くの広い分類の一部だと考えられており、これらのすべてが、ハンディキャップに結びついているのである。
シカゴ・ロータリークラブはイリノイ州協会の協力によって、その調査を援助することを決定した。彼らはその仕事について、有名なシカゴの身障児のための【スパルディング校】の校長であるジェーン・ネイルと、【訪問看護婦協会】の草分けとして知られているエドナ・フォーリーにアドバイスを求めた。ミス・ネイルは述べている。
「著名で忙しい実業家たちが、これらの子ども達を援助するために時間を割いていることを知って驚いています。こんなことは私の経験にない、まったく新しい出来事です。」
1923年から1927年までの間に、シカゴ・ロータリークラブは、若い身障者を訓練し、彼らが従事できる仕事を用意するために、11,000ドル以上もの金を使った。彼らのために100人もの雇用主と話し合いをしたが、その多くはロータリアンであった。
この経験は、また、その分野の権威者であるミス・マリオン・ハザウエイによって書かれた【若い身障者と職業】という社会奉仕の研究論文の出版に繋がっていった。言葉で言い表せない方法で直接的に個別指導をして、絶望的な人々に勇気を与えたことによって、この学術論文はクラブが行った、より重要な貢献の内の一つとなった。
1928年に、イリノイ大学医学部の整形外科の教授、ヘンリー・トーマス博士が身障児委員会の委員長に任命された。彼は何百もの診療所を配下に持ち、数え切れないほどの手術を実施したが、貧困の条件が証明された患者からの支払いは受け取らなかった。彼の奉仕はハンディキャップの原因を究明するための、貴重な奉仕であった。
1930年に、クラブは最初の1,000ドルを出して、イリノイ大学の研究教育病院の実働部門として、新しい身障児外科研究施設を作った。
引き続いて、委員会は【イリノイ州身体障害児協会】の設立を手助けし、多くの派生的な問題を研究するために、立法化を要求した。
1935年のある日、委員会の副委員長、ジョージ・ウイリアムソンは病棟に閉じ込められた子供に、映画を楽しませることを思いついた。病院当局が承諾したので、彼は直ちに個人的に手はずを整えた。
現在、“映像による特殊治療”は、特に精神医学や整形外科の領域で、特殊なニーズを必要とする子供たちを治療するために採用されている。
1940年から1945年ごろまでは、クラブの主な活動は、大学とイリノイ州身体障害者協会に向けられた。戦争に対する不安は、当然のこととして、プログラムに影響を与え、1950年代における奉仕の多くは、ブルー・アイランド、ベルウッド、オーク・パークに集中している脳性麻痺の多発地域におけるものであった。
一方、シカゴ市は信じられないほどの速さで、大きくなっていった。ロータリアンはこれに気づき、人道主義的活動の更なる必要性に気づいた。そこで、理事会は、すべての新しい奉仕のニーズと可能性を研究するために、クラブの“在庫調べ”に乗り出した。
彼らの意思決定の結果として、新しい“特別プロジェクトのための、9項目のテスト”を開発した。これは、1950年代における測り知れないほど貴重な指針になることが運命づけられたものであり、今日もそう思われている。
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1. プロジェクトは地域、国家、または国際的なコミュニティの基礎的なニーズに答えるものでなければならない。
2. それは、我々会員に対して、心底から挑戦しようという念を起こさせるような、充分な意義を持つ奉仕の機会を示したものでなければならない。
3. 理想的には、それは、普段から見落とされていたり、無視されている重要な分野における、開拓者としての努力を代弁すべきであって、その先駆者としての意義は、他の団体や個人に影響力を与えると共に、いまや、この問題に対する取り組みは、他の方法や他の機関に満足感を与えるだけではなく、斬新さや、ひょっとすると劇的で想像力に富んだものではないかと思わせることが期待されている。
4. 理想的には、既存の施設や機関に財政的援助をすることによって、より効果的に処理するというような、問題を処理するために単に、作りだした物の外観にとらわれることを避けるべきである。
5. ともすれば、うわべだけの効果によって比較されるような、攻撃にさらされる問題に対しても、現実的な影響を与えるような妥当な機会を持つべきである。
6. 魅力的な広報の特徴を持つべきであって、基金や他の非ロータリーの資金源からの財政援助に対して抱いた関心をはぐらかしてはならない。
7. 理想的には、広い範囲にわたる資金の運用を支えるために充分な規模を持つべきで、たぶん、我々会員の身分を越えて外部の人に関心を抱かせる必要があるだろう。
8. 提案は、現在及び将来のクラブの他の事業のことを考え、更に、クラブの将来を守るためにも、年間の活動予算の財源の下に於ける特定のプロジェクトという、添え物と考えるべきである。
9. 理想的には、もしそのような開発が、思いがけない将来に、変更する必要が生じたなら、クラブの財政的な責任を終結するための適切な機会を持つべきである。
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これらの9つの項目は、実際にクラブの全体の奉仕理念と行動計画を復唱したものであり、
『ロータリーとはどんなものであるか』
という会員の関心に、再び焦点をあてたものである。
クラブ会員の身分が、都市における高いレベルの実業と専門職務の活動を代表するようになり、会員自身の資質によって、才能は、いかなる種類の努力をも育成することが可能であることが実証された。
しかし、全体の構想の中には、金よりもはるかに貴重な何ものかとして表される、別の種類の奉仕があった。これは時間や努力という名前の支出であり、更に名前が決して公表されず、また記録にも残っていない多くの会員の個人的な資金であった。なぜなら、彼らは、その方法をとることを好んだからである。
1963年4月16日の昼食例会において、ロータリーは、当初20万ドル、その後少なくとも10年は継続して毎年1万ドルと見積もられている費用で、【身障児のためのロータリー・イースターシール処置センター】を設定することを、クラブ会員が満場一致で票決した。
この金の一部は、クラブのクリスマス資金と募金箱から捻出し、残りはシカゴ・ロータリー財団から捻出する必要があった。
その計画に対する現実的な結論として、その年の6月14日に、クラブが、【身障児ロータリー・ナイト】として、シカゴ・ホワイトソックス対カンザスシティ・アスレチックスの野球試合を手配する話が持ち上がった。委員は切符をクラブ会員に売りたいと思って、その通りにしたのだが、会員は、この行事に関心を持った従業員、少年野球の選手やその家族、すべての身障の少年や少女のために切符を買わざるを得なかった。
まぎれもなく、彼らは、シカゴでこれまで組織された野球ファンの中で最も幸福な一団であった。さて、どちらが試合に勝ったか? ほとんどの人々は覚えていない! 他の要件など取るに足らないことだった。
40回目の記念日を記録したことで、最初の【ベースボール・ナイト】は印象的なものとなった。1923年に、シカゴ・ロータリークラブが、最初の身障児委員会を作って、スパルディング校のハンディキャップを持った子どもたちに、締めつけ金具を買うための僅かな資金を与えてから、ほぼ40年の月日が経った。シカゴ・クラブに最初にできた委員会の長い長い道のりであった。
さらに、シカゴは現在、ロータリーがその組織を作り上げた、世界で最も大きい身障児組織の本部がある都市である。
国際障害者リハビリテーション協会は約50の国に国内拠点を持っており、障害者のために、何度かの歴史的な国際会議を催した。この協会の会長を務めた20人の人の半数以上はロータリアンであった。
単一の組織またはグループの個人にも、信用が与えられていなかった時、シカゴ・クラブは、あまねく全世界に奉仕の輪を広げる先導の役割を果たし、今なおその活動を指導している。会員の内の何人かは、まさしく偶然に注目を浴びることがあったとしても、大部分はこの仕事のために、無料で時間を提供しているのである。彼らは、物事を決断し、何百万ドルもの金を使って、数十万人の生活を良くするために影響を及ぼしているのである。
クラブの創始者ポール・ハリスは、後年、次のように語って、感動をこめた賛辞を贈っている。
「身障者に対する活動はロータリーという名前の王冠の中で、最も明るく光輝く宝石のようなものである。」