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義務と社会奉仕
(ゴールデン・ストランドよりG)
彼らは(シカゴ・クラブのロータリアンたち)は、他の僅かな専門機関が活動しているものの、主に教会が人道的活動を指導していることを知っていた。
貧しい家、粗末な善意の施設、孤児院、無料食堂、無料給食の存在はよく知られていた。
彼らが、一つの高い目標を掲げた【公共運動】として、重大な疾病や犯罪を一掃しようという、燃えるような町ぐるみの改善運動を試みたことは、関係者すべてを驚かせた。
彼らはシカゴで最初の公衆便所建設のきっかけを作ったのである!
我々は、彼らが多くのノウハウや実力を持っていたことを知っているが、そのことよりも、その謙虚さを褒め讃えてやまないのである。
その跳躍は別に恥じるべきものではなかった。公衆便所は我々が存在するための根本となる部分であったし、今もそれは変わらない。
確かに、人類は何世紀もの間、それをまったく無視してきた。家で使うために蓄音機やカメラや電話機や自動車を発明したのに、未だに裏庭にある“離れ家”に過ぎないという現実を思い浮かべてみるがよい!
彼らは、シカゴ・ロータリークラブがダウンタウンの市民のために、最初の公衆便所を設置したということを明言することができる。
シカゴ・クラブは、会員たちが物質的互恵主義を最終目標にするよりも、何か別のことをするための努力を開始し始めた1907年に、2年目を迎えた。
ポールは、偶然、シカゴ商工会の会合に出席した。ループ地区における通行人のための快適な公共設備がないという議論が、一項目あった。ポールは一つのアイディアをクラブに持ち帰った。
「ここには、我々のエネルギーを傾注すべき市民のニーズがある。我々は、価値ある奉仕の手助けができる。」
そこでクラブは、グレート・ノーザン・ホテルで25の市民組織の代表者による会議を召集した。連合公衆便所建設委員会組織が、この主導権はとった。
すぐには、結論は得られなかった。すでに店に充分なトイレ設備を持っていることを強く主張したループ内の大きな商業施設からの反対によって、土地を掘り起こすまでに、2年もかかった。若いロータリアンは元気づけられて、市当局に強い圧力をかけて2万ドル相当のものを得た。
1909年の暮れには1つの公衆便所が、市役所と公立図書館にできて生活を快適なものにした。
その後まもなく、YMCAの総主事を筆頭とする著名人が、新しい一般的な心情として、「シカゴ・ロータリークラブは今やその存在する理由を示した。」と述べた。
その間にも、その他の幾つかの奉仕事例は、新しいクラブの実績になっていった。あるものは些細なものであり、あるものは面白く、あるものは心温まるものだったが、最初の活動に匹敵するものは数少なかった。よく好まれる話の一つが、ある男の馬の話である。
シカゴからほど遠からぬ、ジョリエットの近くに住んでいる農夫が、本業の傍らに説教をして回っていた。あるいは、あなたが望むのなら、伝道師が本業の傍らに農業をしていたと言ってもよい。
一見したところでは、彼はどちらの活動に対しても、かろうじて生活の足しになっているだけで、成功しているとは言えなかった。しかし、彼は馬という友人を持っており、両方の職業で働くためには、彼の馬に負うところは大きかった。ある日、彼の馬が死んだ。ロータリークラブの1905年の会員、ドクター・クラーク・ハウレーはそのことを聞いて、関心を持った。
次のクラブ例会の時間が済んでから、クラークのまわりでは議論が沸騰し、彼は我を忘れて喋りまくった。ある会員は語っている。
「もし自由の女神をシカゴ湖岸に移動させるための金を頼んでいるとしても、彼ほど熱心ではなかっただろう。」
結局、みんなは彼の向こう見ずな努力を止めるために、彼に歩み寄って、貧しい伝道師兼農夫に新しい馬を買うために、クラブ会員が募金をしようという動議を取り上げて、満場一致で採択された。
ロータリーは人道主義に基づく奉仕をしたのである。
1908年のある寒い日に、あるロータリアンが新聞を売るために、貧しい身なりをした身体障害児の新聞売り子を、例会に連れてきた。そのロータリアン(彼の名前は残念ながら分からない)は、ほっそりとしていたので、新聞売り子と比べても、そんなに大きくなかった。彼がコインを手探りしている間、少年は震えながら彼を見ていた。あいにく、彼の最も小さい金は、10ドル札で、コインを全然持っていなかった。
そこで、彼は少年の腕を取りながらロータリーに連れてきて、手短に状況を説明して、5セントを借りた。そして、自分が着ていたウールのセーターを脱いだ。他の人たちも状況を理解して、シャツ、帽子、マフラー、ソックス、手袋や、さらにおよそ5ドルの金までもが集まった。声を発する人は殆どいなかった。座車に乗った新聞売り子は、何年ぶりかの最高のおしゃれをしてその場を去った。
そのような出来事は、もちろん偶発的なものであり、非公式なものであったが、1910年2月に、ラムゼー会長がクラブ役員に就任した時、事が煮詰まり始めた。
ラムゼーは、奉仕の機会の展望について、その幅を広げることに関して、まったく疑念を抱いていなかった。
彼は就任演説において、次のように述べている。
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我々自身の目の前にあるニーズから注意をそらさずに、市民に対する我々の身近な義務を考えましょう。もし我々が、誰もが手をつけていない活動を引き起こせば、我々は、効率的な市民委員会の指導のもとで、この町を良くするための力になることができるのです。私は、委員会がシカゴのニーズを探って、考えついた明確な活動を実行することを提案します。ニーズが如何に大きくとも、我々はひるみません。ロータリーは永遠に存続し続け、会員は、町のために偉大なる事業を遂行するに足る精神を持った公共人なのです。
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そこで、関心を外部に向けようという新しい外に対する活動、定着した恒久機関としてロータリーを認めること、その影響力を主として地域に限定していこうという考え方という、3つの重要な点に言及してみたい。
シカゴ・ロータリークラブによって推薦された【市民委員会】が発足したが、今日、この委員会は最も古くから継続されている奉仕委員会の一つとなっている。単にシカゴのニーズに対処するだけではなく、州や国に対しても、より大きい手助けをした。
冒頭に、会員たちが、クラブを、公共的な業務の着手に密着させ、
【そのような行動が公共の関心を喚起するような条件や申し出に配慮した行動を提案すること】と述べている。
徐々に対象を広げていった若いロータリークラブは、シカゴ市の改善を目的とした、政府や学校やレクリエーション施設や社会生活などの多くの市民団体を結成することに行動を広げていった。
1871年の大災害によって灰燼と帰した消防署を復旧しようとして最初に尽力した組織、【シカゴ市民協会】であった。
その関心は、数年の間は、公共の福祉や、公的な契約の保証や、選挙違反を防止するための組織的な努力等に付随する諸問題に対してであり、シカゴ・ロータリークラブは、そのような活動にエネルギーを注ぐことを誇りにした。
もう一つの支持基盤は、市の慈善団体の強化を目指している【市民連盟】であった。これは慈善団体の連合会の結成を目指すものだった。連盟はまた、クラブの援助によって新しい税法の研究を進めて、シカゴの納税者のために数百万ドルを節約した。
永年にわたって、シカゴ・ロータリークラブは【シカゴ防犯協会】と密接な関係を持っていた。世界的に有名なその組織の最初の指揮官は、副会長として2期もクラブで奉仕した、ヘンリー・バレット・チャンバリン大佐であった。
「犯罪と堕落している政治に対抗する勇敢なリーダーシップ」に対して、【シカゴ・ロータリー功労賞】を受賞した。
「犯罪は、集権化され、組織化され、商業化されたシカゴ市が生み出したビジネスです。あなたが他の人々に経営させている、着実なビジネスなのです。
それは決して歓迎されるものではないし、結果として試練の時をもたらすだけではなく、貧しさと冷え冷えとした天候をもたらすものです。
もし世論が喚起されれば、犯罪というビジネスは破産に追い込まれるに違いありませんが、その決断は、それに従事している多くの人々の選択如何にかかっているのです。」
特に、1920年には、保釈保証人の垢を掻き出す調査を実施した。ロータリアンによって勇気づけられた協会の努力が実って、11人の職業的な保釈保証人が大陪審に告発された。
1928年に、76歳になるある厳格な闘士が、ロータリークラブで語った。彼は、フランク・ローシュという、イリノイ州の一般弁護士特別補佐であった。
彼は次のように語っている。「犯罪と政治の間にある結託は、過去の2年間に149件のギャングによる殺人事件があったという事実からも、ギャングのみの仕業ではないことを証明しています。」
ローシュは、公衆の敵に対して、長い戦いをいどんだ。1939年に彼が87歳の時に、クラブは彼の奉仕に対して、【シカゴ・ロータリー功労賞】を授与した。
ゴフ牧師を助けた数あるシカゴの名門の一つはウォルグリーン社であった。ウォルグリーン薬品会社の創立者である父親はもちろんのこと、シカゴクラブの現会員であるチャックや母親も、教会の誠実な後援者であった。チャック・ウォルグリーンはロータリーの【募金箱】活動のために一生懸命尽力した者の一人であっただけではなく、クラブの【ヨット同好会】活動を成功させるために、彼の時間と設備を惜しげなく提供して協力した。
1910年には、聖7月4日協会は、グラント公園におけるアメリカ陸軍の演習に対する協力をクラブに要請してきた。
1913年の春の暴風雨はいくつかの州を破壊し、特にオハイオ州、インディアナ州において人命と財産に大きな損害を与えた。シカゴ・ロータリークラブは国をあげての【災害援助基金】の最も重要な貢献者であり、そのリーダーシップは他の人たちからの募金の呼び水となった。
1914年に発足してから10年以上も、【シカゴ音楽隊】は市の文化的な生活を潤わせてきた。それは一般大衆の寄付によって殆どが維持されており、ロータリークラブは最大の貢献者であった。クラブはまた、音楽隊を幾つかの大会に送って、愛国的な集会や貯蓄キャンペーンの効果を高めた。
永年に亘って、クラブは、公的な選挙の投票に際して、選挙監視人という何千人ものボランティアを提供してきた。これは、シカゴの公正な政治に対する、継続的な努力の一部でもあった。
1947年には、クラブは、大学の癌研究センターのために必要とされる257万ドルの予算を増額するために、シカゴ大学に対して献身的な活動をした。最終的な資金として要求額以上が寄付されたので、アイソトープ研究所、サイクロトロン、核研究をするためのフェルミ協会の完成が可能となった。
1953年に、クラブは、シカゴ科学産業博物館に永久的に展示するために、捕獲されたドイツの潜水艦を運ぶ資金を得ることを目的として、市長直属の市民委員会に協力した。ロータリアンの最初の行動は、基金として500ドルを寄付することだった。これに対するクラブの関心は例外的なものであった。何故なら、有名な名誉会員である海軍少将ダニエル・ギャレリーと乗組員は、1944年、敵潜水艦U‐505をそのまま捕らえるという、未曾有の偉業を成し遂げたからである。それは現在でも、シカゴ・クラブの展示物の一つである。
これらの例は、多くの奉仕活動の代表例に過ぎない。小規模のものや大がかりなもの、殆どの時例は忘れ去られて、公な文書にその内容を止めているものは数少ない。クラブは何百回もにわたってそのような奉仕を実施して、その事業を代行する機関が設立されるか、彼らがそれを運営することを確信するまで、その活動を継続した。これがシカゴ・ロータリーの特徴の一つであった。
活動をする現実の組織は不完全であり、これから未来永劫に続くに違いない、常に変化するニーズや、人間性を守るために、人々が気がつかない特別に起こってくる日常的な事例や機会に対処していった。
委員会構成ももちろん同様である。クラブは将に個人主義者によって構成されているので、非常に柔軟性が保たれており、一人の会員がどのような重要な新しい計画を望んだとしても、1人で実行することができた。
クラブは、むしろ、それを奨励するために、この個人個人の主導性と責任感を充分に抜け目なく発揮させた。これらの人々は、ロータリーの指導の下に密接に行動したが、ロータリーがこれを妨げることは無かった。