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拡 大 へ の 道
(ゴールデン・ストランドよりF)
アーサー・シェルドンは、疑うことなく友人のクラブ会員に話した。
「我々はここで、こよなく素晴らしい物を手に入れることができました。このすべてのものを、自分たちだけで持ち続けて、いいのでしょうか。我々と同じ目的を達成するために、他のロータリー・クラブを組織してはどうかと思うのですが?」
「君の言うとおりだ! 市民生活を良くしようとするのは、特にシカゴ市に限ったことではないからね。」
ドン・カーターはたぶん、そう賛成したに違いない。もちろん我々は、その考え方によって、事実上満場一致で、ロータリー・クラブが枝葉を伸ばしていったことを、既に知っている。
結成しようという衝動は、最初にサンフランシスコに赴いたグループのように、たとえ太平洋岸の大都会が2,000マイル離れていようとも、直ちに、シカゴを後にして、そのクラブ会員を派遣した。理想主義は平原を越え、ロッキー山脈を越え、砂漠を飛び越えて進んだ。シカゴのロータリーについて話しをすると、サンフランシスコの人々は、「どのようにして、ここで始めるかを教えてください。」と、マニュエル・ムノズに頼んだ。
ムノズは、ホール・ハリス会長に、サンフランシスコに行って、ロータリーについての知識を広めるように頼まれ、彼はたまたま、その大役を果たすのに最も適している一人の人と出会った。その人はホーマー・ウッドという名前の弁護士であった。彼は、サンフランシスコ・ロータリークラブ(2)の創立会長になっただけでなく、太平洋沿岸で他のクラブを設立するのを根気強い熱意で手伝った。
一つはゴールデン・ゲートのすぐそばに、それも湾を越えた対岸のオークランドに、そしてもう一つはシアトルにできたという、シカゴに届いたニュースは、ほとんど信じ難いものだった。シカゴの指導の下で、ほんのわずかの期間に成し遂げた快挙であった。
次のニュースは、南カリフォルニアの向こう見ずで急速に発展した都市、ロスアンゼルスの人たちがロータリークラブを認証する用意ができているというものだった。認証charterとは何か?
正式手続は、ほとんど無いに等しく、すべての事柄はシカゴの創立者の思惑を越えて急速に動き出した。
その豊かな理想主義にもかかわらず、ロータリーの拡大は決して順調とはいえなかった。シカゴの会員たちは、見事な形式よりも、しばしば、「人間性」の方が成果があがることに、すぐ気づいた。例えば、彼らがそれを完全に成し遂げる前に、ロスアンゼルスには二つのロータリークラブがあり、それぞれの会員数は150人を優に越えていた。一つは、シカゴの祝福をうけたオリジナルのロスアンゼルス・ロータリークラブであった。もう一つは、どのようにして作られたか? ハーバート・クイックという名前の企画と組織作りのベテランが、仕事外のアルバイトを見つけた。そこで、彼は新しい“全米ロータリークラブNational Rotary Clubs”の会員資格を売るために、二人の他のプロモーターに雇われたのである!
驚きの声が直ちにシカゴに広がったのはもちろんのことである。ロータリアンたちは、クイックへの報酬が、言葉優しく勧誘するために電話帳の前に座りこんで勧誘した新入会員から収集した会費の中からの分け前であることを知った時、事態は一層悪くなった。そして彼の野望は、西海岸で同様なクラブを設立するだけではなく、大西洋へ向かって東へと拡大することであった。機会については既に話したが、クイックは別の方法で機会を見つけたのである!
ここの会員たちは、クイックの勧めに従って、お互いに「兄弟」と呼びあっていた。
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この町の二つのロータリークラブは、1913年1月1日を期して統合し、300の事業所を代表する一つの大きい組織を結成しようとしている。現在は全米ロータリークラブとロサンゼルス・ロータリークラブが存在し、共に繁栄しているが、彼ら自身の福祉と都市における彼らの繁栄を促進するという、彼らの目標はまったく同じなので、両者の会員たちは、統合の必要性を痛感したのである。このようにして、同じような名前のため起きる混乱は避けられ、経費は削減された。強化という大事業が、共同の委員会によって成し遂げられたのである。
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彼らがこの事件に直面したが故に、シカゴの共同の限界内に一つ以上のロータリークラブを作らないことにしている大きな理由なのである。
後に国際ロータリーによって採用されることになる、シカゴ・ロータリークラブの基本方針は、都市や町にただ一つのクラブしか存在すべきではないと言うことであった。
しかし、1930年代にこの方針は、既存のクラブ賛成投票による決定によって、一つの都市に一つ以上のクラブを作ることと、アディショナル・クラブadditional clubを明確に定義されたビジネス街である地区内に結成することが、国際ロータリーによって変更された。
外見上、条件が満たされる世界中のいくつかの大きい都市には、その市域限界内にアディショナル・クラブが設立された。しかし、他の多くの都市では、一つの都市に一つのクラブという基本的な概念を好んで固守して、複数のクラブを持つ計画に変更しようとする考えに反対した。
他の場所における拡大は別の問題である。シカゴ・ロータリークラブは、近郊の多くのクラブのスポンサーになり、個人的に指導に当たると共に、何百通にも及ぶ文書を送った。
例えば、1905年の末にシカゴ・ロータリークラブに入会し、我々がすでに会っているフレッド・ツイード(Fred Tweed)は、個人的にニューヨーク市(New
York City)でロータリーの進出を画策した。ポール・ハリスは、当地の友人の弁護士と連絡を取り合って、その可能性を打診した。フレッドは、その計画に決着をつけるためには,うってつけの人柄だった。彼の人となりについては、シカゴのある友人は次のように記載している。
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彼の明らかな優しさは、通りすがりの第三者にさえ、より深い印象を与える。
通りで立ち止まっている人は一瞬彼を見ただけで、微笑みを満面に広げながら、通り過ぎていく。レストランの給仕や小売店主や新聞売り子は、彼に特別な関心を払ってサービスする。彼が行く所はどこでも、彼は特別あつかいを受ける。彼はいったい何を見返りに出しているのか? 彼はそれにまったく気づいていない。それが彼の人となりである。温和で、親切なフレディ老人、それは彼の片鱗に過ぎない。彼は、決して、紳士になるすべを学んだのではない。彼にそれは必要ではなく、生まれつき備わっていた天性であった。
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「この出来事は爆発のようなものです。飛び散る火花と共に、多くの現況は手当たり次第に衰退していく。」
ほとんどすべての例において、点火に引き続いて衰退が起こり、新しい物が出現してきた。
ポール・ハリスが全国組織を夢見始めたのは、早くも1908年の秋であり、その時期に、ポールは彼が組織したクラブの3代目の会長を務めていた。
そこで、会長の権限で、彼は新しい【広報拡大委員会】の委員長として、販売の専門家である彼の友人、アーサー・シェルドンを任命した。1年も経たない内に、最初に『サービス』というモットーを、クラブに提唱した探究者アーサーは、熱心な努力でこの委員会を指導し、クラブ例会において、西沿岸における経過に関する拡大報告書を発表した。この熱狂的な報告書はあまりにも長く、詳細にわたっていたので、その日のゲスト・スピーカーにはほんの僅かな時間しか残されていなかった!
ついに、一人の会員がこれについて発言した。
「こんなナンセンスなことは、いい加減にしてもらいたい。我々は他の都市の拡大について、余りにも多く話しすぎたあまり、自分のクラブの例会の質を下げているのではないだろうか。率直に言って、西部で起こっていることなど、私はそんなに興味はない。」
彼らは拡大にあまり気乗りしていなかったので、彼が会員のことを考えて発言したことは、すぐ分かった。
事態はクラブ役員にとって不安な状態になってきた。1908年11月、ハリー・ラグルスは会長に任命された。彼はこの事態を無視しようとしたが、委員会報告はこれまでよりも更に長く、頻繁に行われるようになっていった。
その間、創立者であり直前会長のポール・ハリスは、拡大の作業に元気づけられて、委員会報告が力強く進められている証拠だと感じていた。彼は、 一つの考え方として、彼自身のホーム・クラブがその必要性に無関心にならない内に、急いで、全国組織に成長させることを夢見ながら、彼らを奮い立たせた。
これが、シカゴ・ロータリークラブで引き起こされた最初の大きな衝突となり、それが本当の理由ではなかったにも関わらず、少なからず苦々しい事態に発展していった。1909年の新年度を迎えると、ラグルス会長とチャールズ・ニュートンの両首脳は、ハリスに対抗するスポークスマンとして効果的な一人のクラブ会員を選んだ。彼らはチェスレー・ペリーに白羽の矢を立てたのである。
その瞬間から、チェス・ペリーは今では伝説ともなっている、クラブに生涯を捧げる生活が始まったのである。
最初、彼はハリスのブレーキ役として、慎重に行動することが期待されていたが、ポール・ハリスは、我々が既に知っているように、ブレーキが簡単にかかるようなタイプではなかったし、自分が正しいと思った時にはいつも、自分自身でやり遂げた。ペリーは無視しながら前進した。
その時、別の変化が起こった。ラグルス会長は、チェス・ペリーをクラブの広報拡大委員長に任命することによって役員の地位を与え、いささか熱心すぎたアーサー・シェルドンの仕事を引き継がせた。その任命はペリーにとって甚だ迷惑なことであり、ポール・ハリスに対する直接的な侮辱の現れとなるようなどんな行動を考えることも、潔しとしなかった。
事態が進展すると共に、その任命は素晴らしいことであったことが分かってきた。ペリーは他の地域でアーサー・シェルドンが実行したことを、多分に独断的なハリスの裏をかきながら、正確に充分抜け目無く行った。2人とも、ロータリーのための【全国組織】を疑いなく指示していた。チェス・ペリーは、何とかして、ハリスをそれに関する議論に引き込もうと努力しながら、わだかまっていたすべての感情を、徐々に軟化させていった。まもなく、2人の実力者は共通の土俵を見つけて、互いの判断で尊敬の念をかち取り、本物の深い友情に発展させていったのである。
従って、ペリーが、直接的にまた財政的に拡大作業を行った結果、クラブのプロジェクトの総仕上げとして、現存するロータリー・クラブの連合会を設立することをほのめかしたとき、ハリスは,ペリー自身が、そのような組織について、どんな詳細な計画を立てているかを尋ねた。
もちろん、その間ずっと、他の会員たちは深い関心を払いながら心配していたが、今や彼らはその結果に満足していた。シカゴ・ロータリークラブは、争いを止めて、精神的に今までより、より緊密により強くなっていった。
1909年の終りに、ペリーが考えた概略としての詳細な研究が、既存のロータリー・クラブの各々からの代表によって構成される【全米理事会】に提出された。
この考え方は、西海岸、ニューヨーク、ボストンから、直ちに支持されたので、この激励を得て、シカゴ・ロータリークラブは、代議員の選出にとりかかった。彼らはポール・ハリス、チェスレー・ペリー、チャールズ・ウィット、フレッド・ロズバック、フレッド・トゥイード、ドクター・ウイル・ネフであった。
細則が印刷され、その第1条には次のように記されていた。
【この組織は、全米ロータリー・クラブ連合会理事会と称する】
今までにも、大きな進歩がもくろまれてきたが、1910年早々に、ハリスやペリーやクラブの新会長ラムゼーは、特別な仕事を推し進めることに没頭していた。ラムゼーは述べている。
「この連合会理事会は、単に理論だけではなく、実際に他の都市にロータリーの功徳を広げる作業をスムーズに開始しました。そこで、私は尊敬の念を込めて、連合会の組織作りを急遽、皆さんと共に成し遂げることと、その組織の会長を指名するに際して、創始者ポール・ハリスの名前をあげることを、代議員諸君に勧告したいと思います。」
ラムゼーは記念すべきスピーチで次のように語っている。
「親クラブとしての我々が取らなければならない責任があります。我々は基準を作って、統一されたエンブレムやレター・ヘッドや、ロータリーを独自なものとして認めさせるような広報の方法などを準備して、すべてのクラブが使用するように奨めなければなりません。」
「大西洋からの太平洋にかけてのロータリー・クラブの鎖のお陰で、我々は実に、強大な力を発揮することができました。我々を素晴らしく強い力で結合させているのです。だから、ロータリーの輪は、今までなかったように大きな成功をおさめながら回っているのです。」
それは、超一級の“応援演説”であり、ぬるま湯に漬かっている仲間でさえも熱狂的になった。チェス・ペリーとポール・ハリスは、シカゴの大会の代議員たちに対して、正式に出発しようとしている連合会の詳細を提示し、そのコピーはクラブの中で回された。
ハリスやペリーと共に活動した最も有能な人たちの一人として、ハーバート・アングスターがあげられ、1965年1月に彼が死を迎えるその瞬間まで、ロータリーの力強い声であり続けた。
だから常に、これらの人たちが、その背景に強い信念と勇気を持つ個性の強い人たちだったという“人間性”を考慮する必要がある。しかし、一つずつ、その矛盾は解決されていった。特別に長くかかり、紛糾した委員会の後で、ある会員がおどけて“流血なしで”と語った。
1910年の半ばに、創立大会を計画するために、シカゴ・クラブから選ばれた4人を含む、7人のコミッショナーが任命された。その日は8月15日から17日と計画された。
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全米ロータリー・クラブ連合会はアメリカの市民生活における最も力強い要因の一つである。国内の最も大きい16の都市で共に戦うその会員は、彼らが引き受けたどのような命題にも勝利を納めることができる。
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ポールは自分のクラブに対して、まったく遠慮していなかった! 彼はコミッショナー会の議長として大会を開催したが、チェスレー・ペリーがその終身議長となり、ハリスは後に連合会の初代会長に満場一致で選ばれて、彼に喜ばしい名誉を与えた。彼は言った。
「私は、如何なる人から如何に素晴らしい贈り物を贈られるよりも、全米ロータリークラブ連合会の会長に勝る贈り物はありません。」
多くの詳細なことがらが代議員たちによって調整され、幕が降りた時には、
【全米連合会】には、その方針と成果の集積はすでに確定されていた。それはとりわけシカゴ・ロータリークラブの辛抱強い努力によるところが大きかった。
しかし、この新しい組織に忠誠を誓うという公式の批准が与えられようとしたとき、多くのシカゴの会員たちが造反したのである!
彼らは、「これは、我々のクラブから自由な行動を奪う!」と叫んだ。
ポール・ハリスは率直に悩んだ。何人かのリーダーたちも同様だった。しかし、反対者たちも彼らなりの理由を持っていた。もつれた問題点は詳細に議論され討論された。
あるグループは強く主張した。
「それぞれのクラブに【自治権】を与えるべきです! 我々は協力をいといませんが、制限を受けようとは思いません。」
他の一派は主張した。
「ちょうど幾つかの州がアメリカを形づくっているように、ロータリークラブの連合には力があります。統合された連合会なら、もっと多くのことが遂行できるに違いありません。」
その見解が最終的には勝利を納めて、やっと、大会の1年後の1911年6月20日に、その条文の批准に署名がされた。
1910年の夏の終りに、ロータリーの歴史にもう一つの重要な出来事が起こった。マッキンタイアーは彼の従兄弟であるウィリアム・ラウダーを訪問するために、ウィニペグWinnipegからシカゴに行った。偶然にも、ウィリアムはロータリーの新入会員だったので、この種のクラブに入っていることによって受ける利益について、従兄弟に話した。マッキンタイアーが強い印象を受けたので、ラウダーは彼らと会って話し合うために、ポール・ハリスとチェスレー・ペリーを招待した。魅惑は急速に膨らんだ。マッキンタイアーは帰国してから、何人かの有力な友人を集めて、その話しをした。その結果として、1910年11月3日にウィニペグ・ロータリークラブが正式に発足し、ロータリーは国際的なものになった。
多くのカナダのクラブがこれに続くと共に、アメリカでは更に多くのクラブが結成されていった。さて、その間に、スチュアート・モローという若いアイルランド人がサンフランシスコ・ロータリークラブの会員になった。まもなく、彼は生まれ故郷のアイルランドに戻ったが、ロータリーに対する熱い想いが彼を捉えて離さなかったので、1911年3月14日に、北アメリカ以外で誕生する最初のロータリークラブとして、ダブリンにクラブを設立するという出来事が起こった。
シカゴのポール・ハリスは、直ちに、彼が拡大の作業をアイルランドだけに留まらせることなく、その努力をイギリスとスコットランドに広げることを勧める手紙をモローに書いた。これはすべてモローが必要としていた応援でもあった。
彼は直ちにロンドンに旅立ち、印刷された文房具や書類を揃えて、その組織の【ロンドン支局】を開設し、その後間もなく、ベルファスト、バーミンガム、エジンバラ、グラスゴー、リバプールにクラブを作った。多くの人たちはそれをまだ認識していなかったけれども、シカゴ・ロータリークラブは、やはり親クラブとしてあらゆることを指導したので、奉仕クラブの活動は着々と進み、世界中に広がり始めた。