運営規則の策定

(ゴールデン・ストランドよりD)

 

 クラブやロータリークラブ連合会の構造上の堅固な枠組は、直ちに、【運営規則】(code of operation)の開発によって形を整え始めた。そのテキストはすべての奉仕へ根元であり、運営規則はすべてのクラブを作り上げる鉄鋼のようなものであって、それ無しには、ねじれ、たるみ、沈み、そしてやがては死んでしまうだろう。

 

我々は、【4回連続して、例会に出席することができなかったいかなる会員も、その会員身分を喪失することが決められた。】という例会の議事録を読んで、その進歩のささやかな証拠を見ることができる。そのような人は去るべきであることは、自明の理であり、その意見は忠実に受け入れられながら、ロータリーは今日に至ったのである。1905323日、シルベスター・シールの石炭置き場の事務所における記憶すべき例会において、その運営規則が可決されたのである。

 

【その当時の呼び物はレポートを読むことであり、最初はシルベスター・シールによって、石炭産業について論じられた。特に彼自身の仕事ではなく、一般的な産業と我々国民の福祉との関係についてであった。】

 その段階では、【背中を掻く】というクラブの目標が了承されていたにもかかわらず、よりよい規則を模索する作業が始まっていた。さらに次の夕方の会合でも、シールに引き続いて、他のメンバーから同じ様な性質のレポートの朗読が続いたと言う。

 

1906年、設立のちょうど1年後に、ある人が例会で、ドラマーと農夫の娘というきわどい話しに触れた。その話は多くのバージョンがあり、純真であった1906年に、仮にセックスという言葉を公然と使わなかったとしても、アメリカ独立戦争のすぐ後の話として、世界中の男たちに好評なことで有名な話であった。しかし、円熟したクラブのリーダーは、そのような話は新しい組織の理想とは調和を保たないと判断した。

 

1907年には、シカゴの新しいクラブの会員たちは、【婦人の夕べ】(LadiesNight)を開催することを決定した。それは、男たちが大きな名札のついた馬車を手配して、遥かサウス・サイドにあるハイドパーク・ホテルの豪勢なディナーまでついていったことを意味していた。夫人たちはそれを喜んだ。

 

このようにして、1週間に1晩だけ、主人たちが要求していた新しいクラブへの出席に、心のこもった賛成を得ることができたのである。彼らの事業を改善することを運命づけられた、人言うところの有益なクラブであった。だからこそ、家族の参加と、熱狂的に高まった夫人の賛同が必要であった。

 

1906年の始めまでは、新しいクラブは極めて多くの有能な人たちが、別な意味で、恥ずかしがり屋であることを認めざるを得なかった。そこで、ハリス会長は、【公式にクラブで挨拶をする人】として、ドクター・ネフDrWill Neffを任命した。ドックは大きい微笑みを浮かべながらその期待に答え、暖かな手を伸ばして、入ってくる一人一人の会員に歓迎と期待の念を表した。彼には否の打ち所のない優美さが備わっていた。その年の最も大規模な夜間例会は、ドクター・ネフに敬意を表して開催されたものである。

 

挨拶の方針の次に重要視されたのは、関連した考えとしてシルベスター・シールから提案された,友情に重きをおくことだった。最初は驚くことばかりだった。例えば、どの教会に行っているというような、構成員の他人の情報を知らされるという前例がまったくなかった。

しかし、彼は【お互いに知り合いを深めることを援助する(1908年)】ことを提案した。そこで、3歳のクラブは、それぞれの会員の写真を入れた【会員名簿】を印刷するための資金について討論した。

 

我々の視点から見れば当然のことかも知れない。しかし、100年近くも前であることを思い出してほしい。写真撮影は子どもの頃の思い出にしか過ぎなかった。まわりに黒い布切れがついた秘密の小箱の中に頭を突っ込んで、居もしない小鳥をじっと視つめるように命じて、最後には、将に科学の奇跡とでも言うべき銀のポートレートを作り出した。

それは一般的には、写真は珍しいものであり、父親のポートレートは、名簿用の気軽な印刷ではなく、楕円形の枠の中に敬虔な面もちで、居間に掛けられていた。

 

当時、236人いたクラブ会員の内、たった65人しか自分のポートレートを持っていなかったのである。人々は、可愛い妻子と愛馬を除いたすべてのポートレートは、“はなもちのならない”自惚れとみなしていた。しかし、シールはそれを推し進め、1912年までには、殆どの“ガリ勉野郎”の写真は名簿に載っていた。

 

次なる枝道は愉快に騒ぐだけではなく、立派な先例を作ることを考える、という出来事によって作られた。名前はさておくとして、クラブに製材業者の会員がいるとしよう。1909年のある日、彼は卓話者として会場にいた。そこで彼は、彼のあごや腕や声を張り上げながら、建築材料としての材木の長所を褒め称えた!

 弁舌は熱を帯びてきた。彼は、原生林、風にざわめく松、つがの木のことを詩的に表現した。人々に最高の家を提供するためには、板や梁が必要であり、それには、小さい種から雄大な木が創造される、ゆっくりではあるがすばらしい過程が必要であるという、自然の生き生きとした描写を述べた。彼は、エイブ・リンカーンが丸太小屋で生まれ、成長した話をした。一見してそれはすべて事実であったし、反論の余地はなかったし、人の心を感動させたので、その話が終ると、クラブの他の会員は一斉に立ち上がって、決議をするように動議を出した。満場一致で、ロータリアンは「建物は、煉瓦がより材木で作るほうが良い。」という動議を可決した。

 

あいにく、創生期のシカゴ・ロータリークラブには煉瓦製造の会員はいなかった。しかし、翌日の新聞はその行為を報告し、一日も経たない内に、ロータリークラブに天罰が下った。シカゴのすべての煉瓦屋は大声で激しく迫った。彼らは叫んだ。

「煉瓦は神の自身の土で作られている!」

「この地球から一握りの土を取って、煉瓦を造り上げたのは、人間ではない!」

 1週間も経たない内に、クラブは、【決議は、今後、最初に理事会によって熟慮され承認されない限り提案することはできない】という規則を採用した。

 

この拭い去ることのできないエピソードによって、この規則は今日まで守られている。道徳律は本当の必要性から発展していったのである!(理事会の先議権

 

同じ頃に、クラブに、喜劇的な過ちとでもいうべき、別の問題が起こった。それはハリー・ラグルスが会長として運営していた年度末のことであった。190910月に、彼と彼の同僚は、あるドラマを選挙に導入することを決めた。ドラマはたちまちメロドラマになってしまった。300人近い会員が充分に考えたあげく、二人の会長が指名された。どちらを選ぶかを選択するために、彼らは会員を赤組、青組(赤札、青札)に分けた。それぞれの組は、会長候補者を選ぶために、後で大量の投票を決断させようと、彼の長所を並べ立てた。青組はチェス・ペリーを選び、赤組はラムゼーを選んだ。そこまでは順調に進んだ。

 

その瞬間、ペリーとラムゼーはどちらのチームに属する方が頼りになるかという、神の加護と野獣の攻撃の双方を得たのである。相手の中傷に終始する法廷が思い起こされた。

「諸君!」

 ラグラス会長は、小槌を強く打ちながら言った。

「どうぞ、諸君!」

 威厳のある弁護士、ポールハリスの声が響きわたった。

 政治団体は聞こうとさえしなかった。顔面は興奮によって紅潮し、微笑みは急速に薄れ去って、厳しい決断を迫られた表情にとって変わったようにさえ見えた。

紳士? 彼らはまさしく紳士であった。人間は政治に関心のある動物であり、しばしば優越感を味わいたいという性格の動物である。その時突然、彼らに恥ずかしさが襲ってきた。彼らはそれに対処した。対立派の赤組の人たちは、注目を集めようと椅子の上に立ちながら、主張した。

「チェス・ペリーほど素晴らしい人はいない。自らで愚かなことをしないで、歓呼によってチェスを選ぶように提案します。」

「ちょっと待ち給え!」

 直ちに青組のスポークスマンが、そう叫んで、椅子の上に跳び上がった。

「チェス・ペリーは確かに素晴らしい。我々はそれを認めないほど狭い度量ではないけれど、我々は、ラムゼーの値打ちもまた同じように認めています。彼は、卓越した会員です。会長! 私は歓呼によってラムゼーを選ぶことを提案します。」

 

至る処で、言葉による銃撃戦が始まったので、ラグルス会長はますます、狼狽するのみであった。彼は、予測のつかないほどの、腹綿の煮えくりかえるような、人間の本能と葛藤していた。彼が為すことのできたすべては、小槌を強く打って注意を促し、例会の中止を宣言することであった。

 

その後まもなく、今回はボーゲルサングス・レストランに、皆が再び集まった。自分の良心を充分に権威づけるために、投票によって決めることにした。後に、例会場として、毎夕食を取ることになる別の意味での名所、シカゴ・プレスクラブで、選挙結果が発表された。僅差ではあったが、ラムゼーが勝利者となった。(補足すれば、それがペリーにとっての最初であり、唯一の役員の落選であった)34年後の1944年に、彼はクラブの会長として役員に指名され、正式に選ばれた。

 

その興奮した経験は、選挙のために組織を作るという方法を始めると共に、終えさせもした。ロータリアンたちは直ちに、役員選挙を白熱しないようにする方法を編み出して、彼らの運営規則を更にもう一歩進歩させることを考えだした。(党内党を作らず

 

その同じ記憶すべき年の1909年に、一般に知れわたっていたシカゴ・クラブによって、新しいロータリークラブが始めて作られた。製材業者と煉瓦製造業者のエピソードの余波から、町の新聞はこの新しい組織を監視したほうがよいと判断した。結局、それは優れた会員に魅力を与えているように思われると、彼らは推論した。目下売出し中の弁護士ポール・ハリスに率いられた、明るい若い実業家や専門職業人たちは、勇ましいジャーナリストの元にすぐさま出掛けて行って、ロータリアンの立場から、広報に望まれることを理路整然と説いた。彼らが選択したことやクラブの活動を世間の人たちが知ることが可能になることで、会員自らに、重要であるという感覚が作り上げられるのである。

そこで、役員たちは印刷された例会通知を新聞社に送りはじめた。【広報】に対するこのような対応は、運営規則に更にもう一つの枝道を広げることであった。

 

ロータリー・クラブはほとんどすべての点で、他のクラブと異なった考え方をとっている組織である。まず第1に、ロータリー・クラブは、同一業種から一人だけ選ばれた約300人の人たちの一団であり、個々の会員の事業をより発展させ、それに伴ってより親睦を深める目的で組織されている。

 

その考え方は、1人のパン屋しか、クラブには所属できないが、パン屋ではない他の299人は、シカゴ中でこのパン屋のパンが最もよいことを、シカゴのすべての人々に納得させるように努力しなければならない。パン屋が彼の方から大衆に納得させなければならないし、別の会員によって売られたミルクも、最高のものでなければならない。

 

それはともあれ、財政問題が新しいロータリークラブの生活の中で、最も重要なものとなった。何かの経済的な裏付けがなければ、どんな種類のグループの活動も、アメリカでは実ったためしはないのだから、それはもちろん当然なことであった。最初は、それについては、殆ど触れられなかった。もし別の奉仕が必要ならば、誰かが自分の時間や才能やエネルギーを提供するためにボランティアを申し出るのが常であった。

 

例えば、ハリー・ラグルスは初期の例会記録の印刷を引き受けた。製紙会社の社長であるダグラス・レイは、例会通知を郵送する封筒を供給した。1918年の終わりに、シャーマン・ハウスにあるクラブ事務所が飾りつけられた時には、新しい照明器具がフランツ・ブルツェクスキーによって、無償で据え付けられた。クラブの唯一の現金収入は、例会を欠席したという名目の罰金から提供されていた。

 

主に学校で使われていたオルガンの製造業者であるアル・ホワイトALWhite)はクラブの2代目会長として、シルベスター・シールの後を引継ぎ、財務問題を重要視した。自分の選挙の前ですら、クラブが会議をするためには、会員たちの事務所よりよい場所を見つけるべきであると提案した。

「ホテルで定期的に例会を開いた方が、いいんじゃないだろうか。」

とアルが言うと、シルベスターは答えた。

「公的な場所の代金を払うような財政的な余裕はまったくないよ。我々は、欠席したときのささやかな罰金以外には、料金や会費をまったく取っていないんだから。」

「私は無料でホテルの部屋を取ることができるよ。」

 アルがそう言ったので、シール会長は喜んだ。

 アルは旧パーマー・ハウスのバルコニーのクラブ・ルームを予約した。そこでの会議が済んでから、彼は、シルベスターにその感想を聞いた。

「素晴らしい! もう一度、して貰いたいものだね。」

とシルベスターは答えた。彼は再びそれを実行した。この回には、彼らはブレボールト・ホテルのダイニングルームで夕食をとり、それから、何と2つのベッドがある2階の部屋に席を移したのである! 当然のこととして、この家具は幾つかの刺激的な冗談を誘発させた。ある会員が主張した。

「私はてっきり、行動するためにギヤを入れていると思っていたのに、このクラブは眠ろうとしているのかい?」

 

シールとホワイトは、違った場所を回りながら例会をするという原始ロータリーの考え方を継承して、次の例会をシャーマン・ハウスに移した。メイン・ダイニングルームの一角はスクリーンで区切られており、ここでクラブの最初の夕食会が開催された。

 異なったホテルで例会を開くという考え方は、実際は、最終的にロータリーが最初の昼食クラブとして出発するまでの数年の間続けられた。

「どこで食べ、どこで眠るのか。」とシカゴクラブの会員名簿に書かれているように、最初の頃のロータリークラブは、ループや外部のホテルやレストランなどで例会を楽しんでいた。

 

ほとんどすべての場合、最初の数年の間は、ホテルの集会室を無料で使わせて貰った。彼らは経済的な裏付けとなる資金を全然持っていなかった。

結局なぜ資金が必要になったのだろうか? 

彼らは対外的なプログラムを持っていなかったので、金を使う必要がなかったことを明記すべきである。

 

ロータリーは、楽しみ、食べ、友情を育み、相互取引をすることがすべてであった

新しい形やよりよい計画や奉仕の理念や道徳律に繋がっていくようなものは、未だ完成する途上にあった。ロータリーが偉大な存在となる日は未だ到来していない。