![]()
まわれ、まわれ
(ゴールデン・ストランドよりA)
変化は当然のことながら、瞬時に起こったものでも、ドラマチックなものでもなかった。事実、ポール・ハリスの互恵取引主義が取り消されたことに、利己的な考え方を持つ人たちが頑固に抵抗した。
印刷業者のラグルスが、彼の保険を保険代理店のトュニソンと契約する。その代わりに、トュニソンはラグルスから文房具や用紙類を買った。2人はシールに石炭を注文し、彼は勿論保険と印刷を彼らに頼んだ。ハリスはいつもシールから石炭を買ったし、ごく当たり前のこととして、3人全員からの法的な問題を喜んで引き受けた。4人とも汚れたシャツはアーサー・アーヴィンの洗濯屋に届け、アーヴィンは感謝しながら彼らと取引をした。また、みんなは洋服屋のショーレーとも取引をした。そして、その関係は果てしなく続いた。
このようにして、彼らは堅固で自己中心的な相互扶助のグループを作った。それが、当時のアメリカの業界で受け入れられたパターンだったので、そのことが違法とか不道徳だと批判されることはなかった。
互恵取引主義に関する初期の記録として、クラブの運営手続に驚くべき例が示されている。1907年から1912年までの間に、個々の会員は、内容を書き込んだ毎週の報告書を、クラブの【統計係】(statistician)に郵送しなければならなかった。そして統計係はクラブに半月の報告書を提出した。どのような形式のカードであったかを、ここに示してみたい。
たくさんの会員たちがお互いに背中を掻き合ったことを、報告書が示したときには、統計係は大いなる満足感に浸ったに違いない。その一方で、報告書の結果がよくなかったときには、多分リーダーたちは、沈黙の叱責を発したに違いない。クラブは【相互扶助】を重視していた。
だがしかし、そのことは実は、そんなに重要なことではなかった。ポール自身は最初から次のように述べている。
「友情は利益をもたらすと同時に、楽しみももたらす。」
楽しみと利益。組織にとって充分すぎる理由である。
「我々はお互いに取引きをしなくとも、毎週1回集まって、会話を交わすだけでもいい。」
みんなは同感であった。競って冗談をいうだけに留まらず、町の話題や天下国家が論じられた。
疑いなく、楽しいクラブであり、会員はクラブ例会に出席することを待ち望んだことは間違いない事実である。
|
重要事項……毎回の食事の数を確定し、会員相互で取引されたビジネスの量を確認する必要があるので、この郵便物を直ちに返送すること。あなたが取引したビジネスを立証する記録をつけて、その会員の名前をしめした記録を大切に保管しておくこと。 |
|
(は い 次回の例会に参加しますか (同伴者数 (いいえ 会 員 報 告 前回の例会以降、私は 人の会員から 件の取引を受け取った。 私は 人の会員について 件の取引に影響を与えた。 私は 人の会員に 件の取引を与えた。 日 付 署 名 |
アメリカ人、特に実業家や専門職業人は本質的に社交性に富んでいる。1905年から1912年の年代には、ウイスキー・サロンはある特定の人たちのためにある集会所に過ぎなかった。上品な人たちは、あまりそこには馴染まず、新しいクラブの紳士たちは、おが屑だらけの床の商業ビルで会わねばならなかった。
シカゴはおろか、他のどんなアメリカの都市にも、非のうちどころのない立派なイギリス紳士が集まったり立ち寄ったりして酒が飲める、古くて名誉あるイギリスのパブのような施設は存在しなかった。
従って、例会は喜ばしいはけ口となり、論じ、語り、歌い、物語を組み立て、友情を楽しむチャンスを作った。1912年までは、創始者は彼がよい事を始めたことを自覚していた。
このグループに名前をつける過程は、思い出しただけでも楽しい出来事である。もし2人の人が一緒になれば、昼食をとりに行こうと言うにきまっているし、3人が会えば、会社を作るだろう。もし4人が集まれば、ゴルフをするだろうし、5人以上が集まれば、彼らはクラブを作り、その名前を巡って言い争うだろう。ハリスとシールによって集められた“素晴らしい友好的な仲間”が心の底から議論を討わしたのが、たぶんそれに当たる。
彼らは、自身たちのことをブースタークラブ(推進者)と呼ぶことを考えついた。
「ブースター? 電圧の上昇?」
辞書はその意味を、前進を助けるために、下から持ち上げるか押し上げると解説している。悪くない!
ラウンド・テーブル・クラブはどうだろうと、誰かが提案した。これもまた悪くはない。
「コンスピレーターズ・クラブ(共謀者)と呼んだらどうだろう?」
その他、1ダースを超える候補者名が卓上を賑わした。ビシッと決めるような発言をする人は誰もいなかった。
最後に誰かが言った。
「我々はお互いの事務所で、一種のローテーションを取り決めて、会合を開いている。『ロータリー・クラブ』(Rotary Club)と呼んだらどうだろう。」
『ロータリー』はクラブの名前として特色があることが指摘され、それを他の国の言葉に満足ゆくように翻訳するのは難しいと判断された。その結果、ロータリーの活動が他の国に進展すると共に、英語の名前がそこで採用されて、世界的に定着していき、その名前は更に輝きを加えた。名前と襟章は、その親みを込めた名前とエンブレムによって、世界中から認められるに至った。そして、それを付けている者は国籍、人種、民族の垣根を越えて、あたかも親類のように感じられた。
目的と名称は、彼らのクラブが創立された最初の年、1905年における、ポール・ハリスと仲間たちの重大な懸案事項であった。ロータリー・クラブという名前が素早くついたので、それに対するいらだちは解消した。【互恵取引】(reciprocal trade)、【友情】(fellowship)、【楽しみ】(fun)という目的は、より強く要求された。
ハリス、シールなどは、しばしば彼らの考え方をそれに設定した。内気な仲間たちが心のどこかで、もし例会が楽しくなければ、会員として長く留まることはないだろうと考えていることは、冗談めいた考えとして静かに根付いていた。ハリスは道案内人であると共に、裏に控えた仕掛人であり、シールは、慎重に計画された議題を自発的な運営にとりいれて、外向的に突っ走る人であった。今日でさえ、すべてのクラブに両方が必要である。
彼らはクラブの目的と名前を既に持っていた。今彼らが必要とするものはエンブレム(emblem)即ち会員章である。他の組織の会員は、誇らしげなピンを持っていた。ロータリーのエンブレムによって、着用者のプライドとクラブの名声を高められることは明白であった。
もちろん、必然的にエンブレムは選ばれた。ロータリー・クラブは、車輪wheelを採用することにこだわらざるを得なかった。すべての会員はこの最初の提案に、うなずいて同意し、討論などは必要ではなかった。
印刷屋のハリー・ラグルスが、直ちにそれに対処することを命じられて、本業に次ぐ仕事としてやることになった。ハリーは、その夜、自分の印刷店に帰って、手持ちの版画のラックをかき回した。
1905年の話であることを忘れてはならない。当時のアメリカには、100万台以上の馬車があったに違いない。売り物のワゴンはあらゆる新聞で広告されており、ワゴン・ホイールのデザインはすべてのアメリカ人の網膜に焼き付いていた。ハリー・ラグルスはそのカットのすばらしい分類表を持っていた。
彼は極めて平凡な一つを選んだ。ハブとスポークを持つ力強い円。飾り気がなく、ごてごてしていない。幾何学的なデザインとして、それはある種の美しささえ持っていた。
まわれ、まわれ
(ゴールデン・ストランドよりA)
変化は当然のことながら、瞬時に起こったものでも、ドラマチックなものでもなかった。事実、ポール・ハリスの互恵取引主義が取り消されたことに、利己的な考え方を持つ人たちが頑固に抵抗した。
印刷業者のラグルスが、彼の保険を保険代理店のトュニソンと契約する。その代わりに、トュニソンはラグルスから文房具や用紙類を買った。2人はシールに石炭を注文し、彼は勿論保険と印刷を彼らに頼んだ。ハリスはいつもシールから石炭を買ったし、ごく当たり前のこととして、3人全員からの法的な問題を喜んで引き受けた。4人とも汚れたシャツはアーサー・アーヴィンの洗濯屋に届け、アーヴィンは感謝しながら彼らと取引をした。また、みんなは洋服屋のショーレーとも取引をした。そして、その関係は果てしなく続いた。
このようにして、彼らは堅固で自己中心的な相互扶助のグループを作った。それが、当時のアメリカの業界で受け入れられたパターンだったので、そのことが違法とか不道徳だと批判されることはなかった。
互恵取引主義に関する初期の記録として、クラブの運営手続に驚くべき例が示されている。1907年から1912年までの間に、個々の会員は、内容を書き込んだ毎週の報告書を、クラブの【統計係】(statistician)に郵送しなければならなかった。そして統計係はクラブに半月の報告書を提出した。どのような形式のカードであったかを、ここに示してみたい。
たくさんの会員たちがお互いに背中を掻き合ったことを、報告書が示したときには、統計係は大いなる満足感に浸ったに違いない。その一方で、報告書の結果がよくなかったときには、多分リーダーたちは、沈黙の叱責を発したに違いない。クラブは【相互扶助】を重視していた。
だがしかし、そのことは実は、そんなに重要なことではなかった。ポール自身は最初から次のように述べている。
「友情は利益をもたらすと同時に、楽しみももたらす。」
楽しみと利益。組織にとって充分すぎる理由である。
「我々はお互いに取引きをしなくとも、毎週1回集まって、会話を交わすだけでもいい。」
みんなは同感であった。競って冗談をいうだけに留まらず、町の話題や天下国家が論じられた。
疑いなく、楽しいクラブであり、会員はクラブ例会に出席することを待ち望んだことは間違いない事実である。
|
重要事項……毎回の食事の数を確定し、会員相互で取引されたビジネスの量を確認する必要があるので、この郵便物を直ちに返送すること。あなたが取引したビジネスを立証する記録をつけて、その会員の名前をしめした記録を大切に保管しておくこと。 |
|
(は い 次回の例会に参加しますか (同伴者数 (いいえ 会 員 報 告 前回の例会以降、私は 人の会員から 件の取引を受け取った。 私は 人の会員について 件の取引に影響を与えた。 私は 人の会員に 件の取引を与えた。 日 付 署 名 |
アメリカ人、特に実業家や専門職業人は本質的に社交性に富んでいる。1905年から1912年の年代には、ウイスキー・サロンはある特定の人たちのためにある集会所に過ぎなかった。上品な人たちは、あまりそこには馴染まず、新しいクラブの紳士たちは、おが屑だらけの床の商業ビルで会わねばならなかった。
シカゴはおろか、他のどんなアメリカの都市にも、非のうちどころのない立派なイギリス紳士が集まったり立ち寄ったりして酒が飲める、古くて名誉あるイギリスのパブのような施設は存在しなかった。
従って、例会は喜ばしいはけ口となり、論じ、語り、歌い、物語を組み立て、友情を楽しむチャンスを作った。1912年までは、創始者は彼がよい事を始めたことを自覚していた。
このグループに名前をつける過程は、思い出しただけでも楽しい出来事である。もし2人の人が一緒になれば、昼食をとりに行こうと言うにきまっているし、3人が会えば、会社を作るだろう。もし4人が集まれば、ゴルフをするだろうし、5人以上が集まれば、彼らはクラブを作り、その名前を巡って言い争うだろう。ハリスとシールによって集められた“素晴らしい友好的な仲間”が心の底から議論を討わしたのが、たぶんそれに当たる。
彼らは、自身たちのことをブースタークラブ(推進者)と呼ぶことを考えついた。
「ブースター? 電圧の上昇?」
辞書はその意味を、前進を助けるために、下から持ち上げるか押し上げると解説している。悪くない!
ラウンド・テーブル・クラブはどうだろうと、誰かが提案した。これもまた悪くはない。
「コンスピレーターズ・クラブ(共謀者)と呼んだらどうだろう?」
その他、1ダースを超える候補者名が卓上を賑わした。ビシッと決めるような発言をする人は誰もいなかった。
最後に誰かが言った。
「我々はお互いの事務所で、一種のローテーションを取り決めて、会合を開いている。『ロータリー・クラブ』(Rotary Club)と呼んだらどうだろう。」
『ロータリー』はクラブの名前として特色があることが指摘され、それを他の国の言葉に満足ゆくように翻訳するのは難しいと判断された。その結果、ロータリーの活動が他の国に進展すると共に、英語の名前がそこで採用されて、世界的に定着していき、その名前は更に輝きを加えた。名前と襟章は、その親みを込めた名前とエンブレムによって、世界中から認められるに至った。そして、それを付けている者は国籍、人種、民族の垣根を越えて、あたかも親類のように感じられた。
目的と名称は、彼らのクラブが創立された最初の年、1905年における、ポール・ハリスと仲間たちの重大な懸案事項であった。ロータリー・クラブという名前が素早くついたので、それに対するいらだちは解消した。【互恵取引】(reciprocal trade)、【友情】(fellowship)、【楽しみ】(fun)という目的は、より強く要求された。
ハリス、シールなどは、しばしば彼らの考え方をそれに設定した。内気な仲間たちが心のどこかで、もし例会が楽しくなければ、会員として長く留まることはないだろうと考えていることは、冗談めいた考えとして静かに根付いていた。ハリスは道案内人であると共に、裏に控えた仕掛人であり、シールは、慎重に計画された議題を自発的な運営にとりいれて、外向的に突っ走る人であった。今日でさえ、すべてのクラブに両方が必要である。
彼らはクラブの目的と名前を既に持っていた。今彼らが必要とするものはエンブレム(emblem)即ち会員章である。他の組織の会員は、誇らしげなピンを持っていた。ロータリーのエンブレムによって、着用者のプライドとクラブの名声を高められることは明白であった。
もちろん、必然的にエンブレムは選ばれた。ロータリー・クラブは、車輪wheelを採用することにこだわらざるを得なかった。すべての会員はこの最初の提案に、うなずいて同意し、討論などは必要ではなかった。
印刷屋のハリー・ラグルスが、直ちにそれに対処することを命じられて、本業に次ぐ仕事としてやることになった。ハリーは、その夜、自分の印刷店に帰って、手持ちの版画のラックをかき回した。
1905年の話であることを忘れてはならない。当時のアメリカには、100万台以上の馬車があったに違いない。売り物のワゴンはあらゆる新聞で広告されており、ワゴン・ホイールのデザインはすべてのアメリカ人の網膜に焼き付いていた。ハリー・ラグルスはそのカットのすばらしい分類表を持っていた。
彼は極めて平凡な一つを選んだ。ハブとスポークを持つ力強い円。飾り気がなく、ごてごてしていない。幾何学的なデザインとして、それはある種の美しささえ持っていた。