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睦まじき世界へ
(This Rotarian Age L)
坩堝は、シカゴにはなお激しく煮えたっており、国を愛する市民は、最後の産物が、よろこばしいものになるのを確信し、有益な成分を、今でも忙しくここに投げこんでいる。
たとえ、シカゴの名が、ロータリー発生の地にふさわしくないにせよ、その実、きわめて適当な所であったということが、アメリカ人、特にシカゴ市民の、承認するところとなろうとしている。
その理由は、アメリカほど、多くの相異なる要素を実験し、同化するに好条件の国はなく、また、湖畔の風が強いシカゴ、社会学的に言って、もっとも激烈の地であるシカゴほど、多くの深刻な社会問題解決の迫っている都会はないからである。
もし、ロータリーが今後の25年間に、今日のように、物質的にも精神的にも進歩を続ければ、ロータリーは、やがて国際親善の上に、最も有効な感化力の一つになるであろうと、明言してよかろう。
しかし、常に用意すべきは、ロータリーの、“最高目的”と信ぜられるものを、実現する必要にある。多くの運動は、自ら満足したために、その目的を達成しなかった。ロータリーは、容易に自ら満足してはならない。
絶滅しなければならない寄生虫は、いわゆる「ジョージにさせろ」主義であって、一般に、「他人任せ」主義として知られているものである。
この悪弊は、ロータリーにも早くから出現して、随所に看取されている。聡明なクラブ会長も、また後から来る人々に、害ある寄生虫を絶滅しなくてはならない。立派な演説は、出席を盛んにするためには大切であるが、立派な演説が、集会の全部ではない。他にしなければならないことがある。必要を見出し、臨機これに応ずるのが、指導者の任である。
有為な指導者は、内に充たすとともに、外に引き出す方法を、見出すべきであろう。最後の分析に徴すると、指導者の成功は、後者よりも前者にもとづく方法が多いようである。雄弁をもって、人々を辟易させるよりも、これを開発する方が、さらに大切である。ロータリー・クラブの会長に、出来上がった雄弁家を選びたがるのは自然の傾向である。
著者の信ずるところによると、雄弁を揮う力は、かならずしも会長に不利ではないが、たまたま、弁舌に頼りすぎると、不利に陥ることがしばしばある。
かりに、甲は弁舌は下手であるが、真の活動家であり、人のために奉仕して、これを開発することに努力する。乙は、雄弁な会長で、人を感動させるに足る演説をし、会員を動かすことが得意であるとする。
その場合、著者からみると、一方を選ぶ外はない。すなわち、甲の活動家を選ぶに限る。
言わねばならないことは、概ね言い尽くしても、しなければならないことは、なお多く残っている。この点を力説していくと、有力な会長は、その資格を有しながら、クラブには欠席がちの人であるかもしれない。
最も偉大な会長とは、陸軍大将のように、後方に控えて計画し、処理し、指揮し、大局について、責任を負う人であるかもしれない。このような会長こそ、多くの有力な指導者を出現せしめ、これら指導者は、さらに輩下の人々を発達せしめ、かくして、上の指揮が下に徹底するのであろう。
ロータリーの運動は、一つの実験室にあるもので、著者は、かってこの実験室の中で、人人の反応作用を研究する、稀有の機会を得たのである。著者は、広大無辺の教訓を学んだ。人間の心意過程を研究して、結論を下しかねたこともしばしばあった。
著者の仕方は、自説を固持するのではなく、忍耐して、むしろその発展する日を待つにあった。この仕方に従った結果、著者はしばしば、誤解を避けることができ、ほとんど拭うべからざる疑惑をも、たちまちにして一掃し得た。著者の年来の結論が、間違っていることを知るに至ったことも稀ではなかった。
ロータリアンは、その朋友や会員が、一国の中にのみ、局限していないという事実に対して、意を強くしている。あらゆる階層、あらゆる国々の男女が、反覆してロータリー運動を称賛し、その発達の、迅速にかつ拡大するのを驚嘆している。
ロータリーの、人を癒す精神、人を向上させる感化は、現代世界においてははなはだ必要である。
トーマス・ジェファーソンは、親睦とは、人生において最も重要な境遇であろうと言ったが、いかにも、ロータリアンはこの真理を体得して、自分たちが親睦を、世界中に拡げようとするものであるということを、誠心誠意をもって信じているのである。
【友誼】と【親睦】とは自然のもので、機会をさえ得れば、発育するものであろう。
これを、成熟させる時機を失うことは、ダイヤモンドを、海に投ずるよりも愚かなことである。人は皆、日々塵世の苦労に疲れているものであるが、夕べに、友人の訪れ来ることがあれば、鬱情は忽ち去って、新たな気持に向かうであろう。世界は、人をして互いに往来させるため、良い道路を必要とする。
しかし、隣合いの往来は、堂々正門によらず、裏木戸からで結構である。われわれの祖先の時代には、人は「立ち寄った」ものである。わざとあらたまって、「訪問する」よりも「立ち寄った」方が、はるかに愉快である。臨時の用意に、「余分の皿」を忘れてはならなかった。それが、好意の先駆者であった。
親しい訪問は、最高の音調であり、鮮肉、強壮剤、葡萄酒に勝るものである。これを試みたらよい。シルベスターは、ロータリーという言葉を、最初口にした人であるが、著者の住んだ、「カムリ―・バンク」より、彼の家へは、一条の道が通じている。樫の森の間を、踏みならされた羊腸とした路で、それは春になると数知れぬ花が匂い、秋が来ると赤々としたうるしが輝く。森は暖かい日には、好音に満ち、色々の美しい鳥が常にここを去らない。
この特別の道は、20余年間、シールとハリスの長靴や短靴の跡を印している。綿密な観察者は、定めて踵のへった靴跡をも見出したことであろう。シールとハリスが、互いに走り往復する時は、着のみ着のままであって、彼らの訪問は、衣服をみせるためではなかった。
エルパート・フッパードは、親しい交際は、飲食と同じく必要である、と言ったが、真に親しい交際がなければ、この世界は暗黒である。
人は、貧を忍び、病に耐え、有為転変を我慢することができるとしても、もし、朋友を有しなければ、ほとんど生き甲斐がない。
対談は、必ずしも親しい交際に必要ではない。カーライルは、友と向き合って、沈黙したまま、長い冬の夜を過すことを好んだ。2人は、ともに坐して煙草を吸った。親友と黙坐相対して、心に相通う喜悦を味わうことを知らない人があろうか。親友と交わるには、鵲(かささぎ)のように饒舌するには及ばない。
ロータリーは、個人、国家、国際の親睦、親切、友誼、援助という伝統を作るため、献身する人々と、一致結合することを第一義とする。ロータリーは、かって、これ以上の特権を、求めてきたものではない。公共、国家および国際上の福利のために、計らなければならない案件は、挙げて数えることのできないものがある。
「われわれは、相互の事業関係につき、適当な見解を持つべきである。」
「われわれは、決して自己満足に陥るべきではない。」
「われわれは、逆境にも順境にも、またあるいは、戦争にも、平和にも、直面する覚悟がなくてはならない。」
「われわれの思想は、硬化してはならない。」
「われわれは、いつまでも、成長してやむことはないであろう。」
以上は、われわれの信念である。
この世界は、たえず変化している。そして、われわれは、世界とともに、変化することを用意しなければならない。ロータリーの講話は、くりかえさざるを得ない。
何故に、ロータリーは1905年に現われたのか。
思うに、社会運動もまた、個人と同じく、遺伝と環境との法則に従わなければならない。ロータリーは、寛大という大精神をつたえ、I Willというシカゴ魂をついだが、2つながら共に、多くの人々の間に伝わる無形の世襲財産である。
国際ロータリーの会長や、役員、ガバナー、クラブ会長は、一人として、その痕跡を世に残さないものはない。個々の会員は、代る代る環境とともに、遺伝の所産であるから、1905年、シカゴにロータリーの起った所以を知るためには、さかのぼって歴史を回顧しなければならない。
ロータリーの根は、当代文化の中に深く埋没していた。同運動を助けた力は、数世紀の間蓄積されていたものである、と言っても差し支えない。
アメリカ西部の、自由で友誼に富んだことは、知れわたっていた。西部には、伝来の憎悪心が蔵されていない。傷は深いとしても、早く療治する方法がある。
南北戦争の終るや、南部連合軍の司令官ロバート・E・リー将軍が、北部同盟軍の司令官グラント将軍の前に降参し、その表徴として帯剣を脱して、これを捧げたときのことであるが、グラントはリーに向かって、貴下は、勇将で、余りに善戦したため、遂に剣を失うに至ったのであると慰め、剣を返して鞘に収めさせた。
今日、アメリカの北部では、敗けた連合軍の歌、「デキシー」ほど、熱心な喝采を博する音楽はない。これあくまで、平和は守護されなければならないという精神から、発することである。
西部は、東部より生じ、新世界は旧世界の所産である。ニューイングランドは、ロータリーの生まれる久しい以前において、初代の特質であった、偏狭と頑固とを放棄して、アメリカの自由を育てる地となった。
プラトン哲学と同じく、ロータリーは、現在の場所および現今の時代とに、関心をもつ。1905年2月23日は実に心理的な日であった。
当時のシカゴでは、正義の力が邪悪に向かって、激甚な戦いを挑み、社会の大渦巻が、白く沸騰していた最中で、ロータリーが生まれるのに、もっとも適していた。
ロータリーは、常にその先得権を感謝せざるを得ない。これがなければ、成功を期することができなかっただろうし、これがあってこそ、万事は成就した。
ロータリアンは、その団体運動に対して、社会が同感を表わし、正しくロータリーを諒解したことに対して、感謝すべきである。そして、ロータリーの、団体運動に対する非難は少なく、称賛の方が多かったことである。
およそロータリー会員は、身分の高低と貧富の別なく、人種にかかわらず、宗教家たるを問わず、政治家たるを論ぜず、寛大、忍耐、正義、親切、友誼、親愛を、このわれわれの知る、最善の小世界の住人に支給している人々に、好意を伝える使節として、終始するものである。