宣    伝

This Rotarian Age J)

 

 彼らは、ひとえに最善を願い、そのために進んで献身する理想主義者である。

「役に立つ」、という語は「奉仕」というよりも、仰山ではなく、むしろ適切である。ロータリーは、実業家の団体であって、実業人は足を大地に踏みつけて、着実であることを好むものである。

 われわれは、妄りに批評と戦うべきではないとともに、これを雲煙過眼視すべきでもない。

 

 ロータリーは、好んで批評に応じたが、その論ぜられたところは、大体において推賞をかち得たものであった。代表的な批評家が、しばしばクラブに招かれて演説したことがある。シカゴのロータリー・クラブの如きは、最も著名な批評家の一人をして、思う存分に演説させた。

 

 著者は、特に、シカゴ大学の社会科学の専門家から選出した委員の、思慮緻密な批評に、注意せねばならないと思う。

彼らの批評を、非実際家の妄想とみなして、これを抹殺すべきではない。

彼らは、決して浅薄でないのみならず、彼ら委員には、ロータリー文書を研究し、また多くのロータリー会員と、協議する機会が、十分に提供された。委員は、このような機会に恵まれているから、彼らの批評は、悪意をもって激発していない。

すなわち、彼らの批評を鼓舞したものは、好意であった。その批評は、自ら満足したクラブを動かして、その惰眠より覚醒させ、無頓着のクラブを、幻惑より離脱させる効果があった。すべてのクラブを向上させ、一層高い責任を感ぜしめたのである。このような真摯な批評は、バーナード・ショーの「俺にはロータリーの行先が判る。昼食を食べに行くのさ。」というような、軽薄な批評とは、その精神において著しく異なっている。

しかも、シカゴ大学選出の委員が、シカゴ・クラブに提出した推薦の一つにより、将来、論争をかもすおそれのある定款の付則も、変更するに至った。

シカゴ・クラブの、この修正に賛成した決議は、大多数をもって通過し、この種題目に関する討議は、完了したと言ってもよいのである。

 

当該委員の報告は、相当の時間を費やし、かつ、すこぶる巧みに問題を取り扱った。ここに、ロータリーという世界に普及した組織の力が、大いに活用される最大の機会が、横たわっているとされた。

 

シカゴ大学選出の委員からみると、シカゴのロータリー・クラブは、勢力のある約700名の実業家をもって成立し、これらの会員は、種々の商業や職務に従事しているから、同クラブは、社会の重要問題を討議する理想的議場であり、公共の指導者を養成する理想的団体をなしているのであるから、委員の目には、ロータリーの前途、最も有望で、会員は区々として、ただに博愛慈悲の方面の尽力に止まるべきものではない、と考えられている。

 

しかし、著者はロータリーが現在必要として力を致している方面が、油断のないことを望むもので、ますます実験を重ねて、その行程の才智が明らかになるまでは、ぜひともロータリーの現状を継続して欲しいのである。

 

 およそ一つの団体が、発展して、さらに飛躍をみようとするには、必ずや試練に遭遇し、あるいは錯誤に陥ることもまぬかれない。

この時に当り、最も重きをおくべきは、忍耐もって実験を重ねる精神態度を持し、かつ、これを継続することである。

かって、ヘンリー・フォードが新聞通信員と会し、

「貴下は、自ら進んである失敗を認めるか否か。」と尋ねられたとき、

かの大工業家が、答えていうには、

「自分は一度も失敗した覚えがない、自分は多くの実験を試み、その中のある実験は、成功しなかったというだけのことにとどまるのである。」と。

 

 自説を誇らしげに主張することは、人々の陥りやすいところで、指導者を多く有する大団体では、ことにそうである。

自説を固持して、遂には偏狭に失するに至るは人情である。人は、自分の行く道が、はなはだ明らかに見えるほどに、他人の道ははっきりしないものである。著者は、自分に弱点があるから、特に上叙の困難に気づいている。著者は、公平を期し憶測を斥けて、実験という精神態度を抱こうと努めているが、明らかに失敗したことがしばしばある。

 

 ロータリーにおいても、他の団体におけると同様に、その根本義ということが頻りに論ぜられるが、そもそも、根本義とは何であるか。

例えば、論争をかもす政治問題について、討議するのをやめることが、それであるのか。久しい間、そうと考えられていたのであった。

 

多くの会員の信条によれば、ロータリーが、民族も信仰も異なる多数の人を合して、友愛するを得た、という未曾有の成功は、一つの事実に基づいている。  

 

すなわち、会員がここにロータリーという神聖の場所を発見し、彼らは、宣伝に乗ぜず、また転宗を強いられないということである。ロータリーが異民族、異宗教の人々を集合して、これを一致させ得たのは、この事実に即しているとロータリアンは信ずるのであるが、これは、ロータリーの会員を獲得する強みでもあり、また弱みでもある。結合させるものはセメントであると同時に、この取捨に注意しなければ、建築物を粉砕させる爆発薬ともなるのである。

 

 ロータリーが、国際的性質を帯びてきた今日、特に旧組織の維持が大切であると提議するものがある。国際的境域に入る時、人は徐ろに、自国のために思うとともに、ますます他を親切に遇すべきである。

彼は説教せず、保護者ぶって話さず、講演も演説もむしろこれをなさないことをよしとする。この種のことのみ没頭すると、かえって、その目的に遠ざかる結果となる。

 

数輪の花も、これを数々に利用し得るように、演説という花も、いかようにも、これを遺ることができる。

人は、行くところ可ならざるなきを、上乗とするけれども、さりとて、多弁迎合を、よしとするものはない。

 

まず、誠実を第一とし、もし優美な思想が浮んでこない時は、むしろ黙止するに如かずである。

しかし、われわれは互いに一つの大家族をなし、共通の問題を有する以上、冷淡に過してはいられない。親切な申し出に対して、いつまでも、これに応ずる覚悟がなくてはならない。

 

 自国が軽蔑され、はなはだしきは、罵声の声を聞くようなことがあれば、国際親善のためといっても、沈黙を守らなければならない理由はない。自ら正しくして、他の攻撃を招かないとともに、他の不正を是認せずという態度を示さなければならない。

このようになれば、たとえ内に、自国人の非難を蒙ることがあっても、外に、他国人の挑戦を排除することができる。一たび国際間の論争に面し、ロータリーがその渦中に投ぜねばならない時には、そこに関税、借款、軍備その他何の問題があろうとも、われわれは“善意”をもってこれに処し、悪意でこれに向かわないように、常に丁重でなければならない。

 

 著者は、深く教育に興味を有し、ロータリーが、国際問題の理解を助長する上に、絶えず寄与することを願う故に、かたよった教育は、むしろ無きに如かずと思っている。かりに、一国の代表者が、自国の立場を述べるために、ロータリー・クラブに出席を許された時には、同国人で、反対の意見を抱く者もまた出席して、彼らが一般に認める立場について、述べなければならない。

これは、著者の信じ、また主張しようとするところである。

 

およそ、重要な論題については、賛否双方の意見を、併せて傾聴すべきであって、そうでなければ、むしろ双方の意見をきかない方がよい。

著者は法律家として、裁判が、原被告いずれか一方の主張が強ければ、概ねその方に味方する、ということを知っている。宣戦布告に関する国家の政策が、多くは片聞きに基づくという事実に悲惨がある。

 

 いずれにせよ、ロータリーは、常に一種の問題解決方法を見出すから、決して紛糾を見るような場合はないはずである。

ロータリーが逢著したすべての問題で、事の国際間に関した場合ほど、忍耐と辛抱とを要したものはなかった。もしも、実験という精神態度を保持し、自説を誇らしげに固持することをやめ、周到の注意をもって、ロータリーを国家主義の宣伝機関たらしめないようにすれば、必ずや、尊い結実がロータリーから出てくるに相違ない。

 

いかなる場合にも、ロータリーはその組織を、自治範囲にとどめ、もってその組織内において、自由に実験を試みるということを各クラブの特権とすべきである。ロータリーは、長年にわたって一定の方針をとってきている。すなわち、各国のロータリー会員をして、その国々に最もよく適した仕方で、ロータリー精神を、遺憾なく現わさしめるという方針がそれである。

 

 大学選出の委員が、友誼に下した解釈は興味がある。

特に「ロータリーの友誼は、奉仕を毀損するだろうか。」の題の下に記したところは、はなはだ面白い。その要旨は次に記すようであるが、結局、切実な質問としては、

 

・ロータリーの友誼は果して真の社会奉仕に到達するものか、あるいは、かえって社会奉仕を毀損するものか、

・「挨拶と集会」とを事とするロータリー会員は、口にロータリーの理想を喋々と語るが、実は、元来個人同士の親密和睦に興じている輩であるのか、

・友誼を内心に盛んならしめるとは、どういうことなのか、

・ロータリー会員とは、個人あるいは団体の活動を通して、奉仕という理想を成就するため、外観だけの友誼を盛んにしようとして、親睦している有力な実業家や専門職業人であるのか、

と、いうことにある。

 

 すなわち、委員がシカゴ・ロータリークラブの会員に試問を送った中に、

“友誼”に関しても質すところがあり、その解答に徴して、以下のように結論しているのである。

「会員の大多数は、熱誠かつ親密な交情によって一致している。この親愛は、自らこれを保持して行くのには、十分なものであるが、ここに奉仕という理想を達成せしめるに当り、これにより、個人や団体の活動を激励するには、なお不足を感ずるところがある。

ロータリーの友誼は、それ自身全く望ましいものであり、奉仕という理想の一概念に対して、心理学的基礎を据えている。」と。

 

 さらに委員の報告は、

「ロータリーの普及した友誼は、他の社交クラブや、集会所に現われた友誼と似通っている。友誼は、もとより必要であるが故に、存在するのである。

近代の都市文化は、とかく人情を冷却し混乱させているから、何らかの親密な人格的関係が、社会上の善徳として歓迎されるべきである。

然るに、実際、友誼というものが、望ましい種類の奉仕を助長させていない。故に、その方策という問題が起らねばならない。

すなわち、『バビット』の一書に、滑稽化したような友誼ではなく、積極的で、社会的で、顕著な事業計画に精励するため、社会上にも、個人間においても、同じ友誼を要する。

ロータリーは、この種の友誼を助長させるため、種々の計画や団体事業に向かって、大いに力を致すべきである、という方策の問題が起ってくる。」と。

 

 著者の見解は既に述べたように、会員の大多数が、ロータリーの事業に参加活動するに至ることを願いつつ、その事業を発展させ、また興味を生ぜしめるよう、たえず努力することを良策とする。

上記の観察は、もっぱら、ロータリー運動全体の中の、最大なるシカゴ・クラブに基づくものであるが、とかく大きなクラブは、討論クラブたるよりも、傾聴クラブになりがちであることを、読者は知ることであろう。

大きなクラブは、常に有名な演説者を外部から招待し、会員相互が討議する機会の少ない傾向がある。シカゴ・クラブの如きは、委員のみをもってしても、小クラブをいくつか集めた会員の総数よりも、はるかに多く、この委員会が、ある程度まで、一般クラブ員として親密の欠けるところを補っており、ここに精神と興味とを共通にした会員は、大学委員の承認した有益な友誼を十分に味わっているのである。

 

 批評的精神は、進歩を伴うものである。工業は、現状不満の精神の故に発達する。進歩的工業は、常に新しい境域を開拓し、未知の世界へ未知の世界へと進む。現在の標準を保つに過ぎない製造業者は、つまずいて、他人の後に目を見張らざるを得なくなる。大製作所の中の、最も有益な仕事は、調査考査にあるのであって、この部門は、現状不満という根本精神を、具象する所である。 

ロータリーの最大の指導者は、現状に不満を感じて精励する。

ロータリーは、常に真摯な批評には喜んで従おうとしているものである。