ロータリーに対する評価

This Rotarian Age I)

 

 そもそも、ロータリーが最初に成立した1905223より今日に至るまでの間、会員クラブで、その誓約を破棄したものは割合に少なかった。

世上、多くの団体が、朝生暮死のはかない状態にあることを考えれば、ロータリー・クラブの永続は驚嘆に値する。

経済不況時代に際しても、ロータリーは絶えずその特色を発揮したことは、はなはだ顕著であって、クラブの数が増し会員がふえ、相まって着々と進展している。

 

 それなら会員の出席はどうか、果して会員は出席を怠らないでいるか、それとも会員は、有名無実に過ぎないのであるか、この質問に答えて言おう。

各会員の出席は、少なくともクラブの集会数の、6割を下ってはならぬ。

そうでなければ、会員資格は喪失すべきものである。ここにいう6割とは、最小限度であって、平均するとはるかに6割以上であり、各会員の集会出席率は、増加するも、かって減じてはいない。

 

これがすなわち、ロータリーの健全な現状を証するものでなくて何であろう。無欠席の記録を有する会員は、今後も、この記録を持続しようとして、自ら大いに精励せずにはいられない。それには、絶えず身体の強健であることが、最も必要であって、出席という記録の上では、病気のためならば欠席してもよい、という申し訳は成り立たない。

 

 多忙な人々を、一週に一度、その事務所から誘致するには、何か強い引力がなければならない。

ロータリアンは、いかにも強壮に見え、熱烈であり、?剌として、その一緒になった元気は、到底これを他に見出すことはできない。

ロータリー会員には奉仕する理由と意志とがある。

 

 あるロータリー会員が、以下のように記している。

ロータリーは、実際と理想とを調和するように、また尊崇をもって、友誼と略儀とを調和する。ロータリー・クラブでは、何人も不愉快な話を試みてはならない。殊にまた、ロータリー会員の妻子も同席する場合に、不謹慎のことがあってはならない。この作法は、長年にわたった不文律で、重複されている規則でもある。

ロータリー・クラブの集会は、不愉快な談話をする時間でもないし、場所でもないと同じく、クラブの出版物等も、また、会員やその家族の感情を害するような場面となってはならない。それが単に面白いとか、おかしいとかいうような事柄は、ロータリー出版物に掲載される資格がない。」と。

 

世の中には、金銭以上の尊いものがあるが、その最高の価値に位するものは、友誼でなければならない。

友誼が人身に訴える力に感じ、友誼が多くの人々を感化するのを見た時、著者は幾度となく深く感動したことがある。

 

 ロータリーが、あえて形式をはり、技巧を弄ぶことを禁ずるのは、ロータリーの各人が、その地位や身分に頓着せず、平等の地位にならび立っているからである。友誼は、ロータリーのこのような雰囲気でこそ、発育するものである。 

 

アメリカのロータリー・クラブでは、会員同士が挨拶をするとき、その名字の代りに、個人名を呼ぶ習慣がある。ただし、このように呼ぶこと、を要求するものではなく、単に習慣であるに外ならない。甲はこの習慣に、追々慣れ、乙は自然とこれに和するのであって、習慣に和さないという人は、そう多くいないはずである。たいてい、新入会員がこの習慣に馴れた時、不思議にもその心が、寛いで欣快を覚えるもので、一度、この習慣を身につけてしまえば、また当惑するようなことはなくなるのである。

 

 とにかく、病身であった一ロータリアンの例を思い出す。毎週の集会に出席するために、約20マイルを旅行するのが常で、その定めの席に彼の姿を見ないことは、はなはだ稀であった。このロータリアンは、何か価値あるものを得たと、推論して間違いがないのである。獲物というのは、“握手”に過ぎなかったかも知れないが、その握手は、長途の旅行を償って余りがあった。

あるいは、はるばる出かけて来て、与えられたものは“友人の微笑”であったこともあろう。

一語にして、最善の説教の一つは「微笑」という題目である。

 

人は、微笑に慰められてこそ、人生の行路を朗らかに濶歩する。友情を呼び起すものも、これまた微笑である。微笑は、心の中の嵐を鎮めるものである。微笑に迎えられると、人は厳寒の空にも暖かくなり、酷熱の下にも涼しくなる。微笑は年がら年中、人心を慰撫するものである。

 

 サイラス・カーチスは朋友を愛し、彼にとっては握手と微笑は、無意義のものではなかった。

握手や微笑があればこそ人間は生き甲斐がある。

 

 ヘンリー・ウォード・ビーチャーは、下記のような説教をしたことがあるが、これが、ロータリー精神を喝破したものでなくして何であろうか。

 

「世界において、微笑するものは人間だけである。宝玉は燦然として、光線を反射させ得よう。しかるに、ダイヤモンドの光といえども、人間の眼の輝きと、喜悦の明るさに較べることはできない。形容以外花は、微笑することができない。微笑は、うるわしい花にすら、求めることのできない魅力である。

微笑は人間の特権である。愛と愉快と喜悦の三つの帯びる彩色である。

 

微笑は、人間の顔と称する窓に射す光であって、この光明に照らされて、人の心は、家に落ち着き団欒の楽を覚える。微笑し得ない顔は、花弁が開かずに、茎の上で干からびる蕾のようなものである。哄笑は明るい昼で、渋面は暗い夜である。そして、微笑はこの双方の間を往来する陽光である。微笑の方が哄笑よりも、また渋面よりも魅力がある」と。

 

 ロータリーは、大いに若い会員の加入を奨励することを志している。

青年は熱心であり、果断であり、したがってロータリー運動に貢献するところが多い。青年、中年、老年各々に働くべき役割があり、万人が互いに協力すれば、効果はますます大である。はたまた、元気満々たる青年が、年長の会員から資本の供給を受け、両者が一致して好成績をあげている事業の実例も、多く見られることである。

 

 キケロは言った。

人は齢を重ねるに従い、益々公務に心を傾けて行かねばならないものであると。人生の意義を十二分に現わそうとすれば、年をとるに伴って、自分のことばかりを考えないように、しなければならないというのである。

 

 良友との交誼を喜ぶ人から見ると、人生は常に生き甲斐があることである。

 

 故フランシス・パットン博士は、プリンストン大学の尊敬すべき前総長であった。彼は、晩年に著しく耳を損じ、ほとんど聴力を失ったので、著作に没頭する興味を感じた。

博士は、視覚や聴覚を損じたため、かえって心の窓が広く開放されて、そこに、美しい思惟世界が出現してきた。

聴力と視力を失った虚弱者には、何もできないのであろうか。否、このような人でも、その志気さえ損せず、パットン博士のようであったならば、なお、自分を有用の器たらしめる方法を見出し、もって、幸福であることができるのである。

 

 多年、実業に没頭した人々は、その激務のために、緊張した時代には身体の疾患が、大したことでないように思ったものが、引退後に、ひたすら疾患が関心事となり、急にそれが気遣いになることに、心づくことで、実際、疾患が引退者を悩ませる仕事になる。

病院の診断表によると、病気が軽いのに、患者が粗忽であるため重体になるような例がしばしばある。このような例を見て、学ぶところがなくてはならない。

 

富は、人を助けないのみならず、かえって、不幸を大きくする場合もあり、貧乏のため、意を自分の健康に用いることができないため、かえって達者だという仕合せ者もある。一時に二つの事を気遣い、そして双方を公平に懸念することは難しい。

 

 重大なように思われるものが、常に必ずしも人生に必要でない。親切、交誼、友情、愛は手軽なようなものであるが、このような諸性質を、首尾よく養い得ない人には、閑暇が堪え難くなり、人生が急に消滅するようになる場合がはなはだ多い。

 

 ウィリアム・ライヨンズ・フェルプスは、エール大学の英文学の名誉教授で、その甘美な人生哲学の故をもって、ロータリー会員が、こぞって敬愛する人物である。彼は言う。

「人の幸福は、当人の興味の多種かつ深奥なのにもとづくと。コロンビア大学のワルター・ピトキン教授は、『人生は四十から』と題する名著を出したが、その中で言っている。

専門家の期待する人生は、事務家の期待するそれよりも勝れていると。また、事務家の期待する人生は、労働者のそれよりも勝れていると。

さらに、身体を健全に保つ最良の方法は、精神の健全を保つにあり、そして、精神を健全に保つべき最良法は、諸問題の全域を健全かつ活発に思考し、もって精神を刺激し続けることにあると。」

これがピトキン教授の説くところである。

 

 ロータリアン・エディ・ゲストは、日常生活の底に看過された美の潜在を、探ったというべき人であるが、彼は言う。

「およそ自然界において錦織なす秋の紅葉ぐらい美しいものはない」と。

彼の詩的想像からみると、秋の紅葉は、葉が落ちて枯れる間際の野外劇であり、大哄笑であり、また最後の祝典である。

 

 ロータリーの見地からいうと、

実業は、人生の重要時であるが、人生の万事ではない。人生には事務専用の所もあるし、それ以外の所に耕作地もあることが認められるが、

その仕事場の外に、視界の拡がらない人は哀れむべきである。

このような人は、仕事に成功しても用をなさない。一朝その事業が逆転する時、彼は何に助けをかりようとするのか。その引退する時が来たとき、彼は何事に没頭してよいのであろうか。

 

 ロータリー主義を信奉する人は、何らかの関心事を有し、これに頼って大いに助けられるであろう。

社会奉仕は、最上の人間道楽である。社会奉仕は、貨幣や郵便切手の蒐集よりもはるかに心を満足させる。

『健康と幸福とは、物質上の財産よりもはるかに尊い。』

戸外生活は、健康と幸福との両方に寄与する。故に、われわれは、戸外生活を愛するように、努めるべきである。われわれは、鳥を愛し、花を愛し、景色を愛する。いずれの道楽も、興味津々たるものがあるけれども、私の道楽は景色を賞することである。

 

 歳月を経る間に、ロータリーの価値を語る幾多の面白い実話が、著者の耳に達してくる。時々、著者の事務所を訪ね、ロータリーは、自分の一生に最大の感化を与えたという感激談を、両頬を潤しつつ述べたロータリアンがあった。

 

 ロータリーの徳により、主人が立派な人物になった。あるいは、夫や父はロータリーに加盟して以来、思慮分別が円熟して、夫らしき夫、父らしき父になったと、告げる婦人達もあった。

 

 ロータリーの目的は、実践にあり、その希望は、人生を充実させるところにあり、その哲学は健全なる哲学である。ロータリーには、もとより教義として特定したものがないが、常に“寛大”をもって他に臨む。

 

 ロータリーの目標は、これを家族関係に局限するものではないが、しばしば、家族会のような催しをなすのは、親子や夫婦の責任感を明らかにするようになるからである。

いわゆる、少年、または障害児童のための計画等、色々のことが行なわれている。救済を要する児童のために、計ることを喜ぶロータリー会員は、自分の子のために無頓着でいようはずがない。

 

 つまるところは、これはロータリアンの純情に感奮した彼が、向上して再び人生の大道を歩むに至ったもので、驚嘆に堪えないところである。実際、彼はロータリーを介して、人々と親しい社会的接触を保つに至るまでは、未だ真に人間を知らなかったのに外ならないので、一度これを知るや、彼は他の長所に気づき、人々を愛するようになったのである。

 

 ジョン・スミスは、最近この世を去ったが、その臨終の近きを知るや、彼は著者に向かい、

「人の寿命は問題ではない。われわれは、よく自分が仕事を果したか否かということのみが、大切である。」と語った。

 

 人間の単純かつ不思議な性質である、“友誼”の力をもって、十分にかつ豊富な生活を味わっている。

 

「生き甲斐ある生活を営み、いつも朗らかに笑い、大愛を有する人こそ、成功に達する。

識者からは尊敬をうけ、可憐な子供たちの友となる人がそれである。    

罌粟(ケシ)の花を見事にし、あるいは、珠玉のような詩を作り、または、救済事業に当るのである。その何たるを問わず、いやしくも、社会のために有用の事あらばこれに任じ、自己の生まれてきた時よりもその死の時に、世の中の少しでも良くなるのを、見ようと努力する人である。世界の美を鑑賞して、これを表現する人である。

 

常に、他人の中に長所を発見しようと努めるとともに、自分の持ってる長所を、惜しまず他に与える人こそ成功者である。

このような人の生涯は、われわれを感奮せしめ、これを回想するごとに、われわれは祝福されるのである。」

 

 クラブの中には、成人教育の講座も設けられ、次第に高尚な課題を踏むようになっている。ロータリーでは、日常生活の実際的価値を考え出し、これを有用にさせる方法を、会員に教えているのである。

 

新たな標準から見ると、人の一生は悉く教育の課程である。ここにいわゆる、成人教育運動とは、商業に従事したり、専門の職務に当った相当に齢をとった会員を集め、これに時代におくれない訓練を授けることで、この教育法は世の称賛を博している。

ロータリーは、進んでこのような成人教育運動に、賛同しているのである。

学問には年齢の差別はない。誰でも若い気持で勉強すべきである。

 

 毎週開くロータリークラブの集会、委員会、幹部会、各市連合の会合、区部会、会長および幹事の集会、国際ロータリー評議員会、国際ロータリー大会等のあらゆる集会は、大いに公民国家、および国際という意識を覚醒させ、思想の標準を向上し、理想を広大ならしめ、相互の理解を助長させるためになされている。

 

 会員同士が友誼を厚くし自他を教育することはロータリーの課程で最も大切である。