復   興

This Rotarian Age C)

 

ロータリー生誕の日2月23日は、この運動の全幅員、全延長を通じて祝福せられるロータリーの暦で最も重要な祝日である。

誕生日の祝福ということが、必ずしも特殊の事項ではないとしても、およそ個人も団体運動もその出誕の日を祝することは、人間社会の通習である。

それが、会員のロータリーに対してその真性を発揮し、その信念を更新鼓舞する最良の手段となるからである。

 

 進化は自然的、秩序的、経済的、建設的であるべきものだが、革命はこれに反する。しかし、両者は共に文明の進歩に与って力あるものであった。

 

 ロータリーの進歩は、概して漸進的であり、よく秩序正しい連絡を保って、次第に行なわれたのであった。しかしまた、その顕著な発展の歴史には、ロータリーの復興とも称すべき大変革、すなわち、ロータリーの目的と理想との上に、一大拡張が行なわれた時期が含まれている。

 

 もし、ロータリーにこの忘れてはならない緩急の時期がなく、したがって、その結果である復興ということがなかったならば、生誕日の祝賀は、全く無意味のものとなってしまったことであろう。希望を更新し、目的を充実し、視野を拡大したロータリーの再生は、ロータリー運動の歴史上に、最も大きな波瀾だったのである。

 

 ルネッサンスの足音は、1906年の後半頃から聞こえ始め、1907年に入ってその響ようやく高く、1913年まで騒擾は継続した。

この動揺の裏に、シカゴ市を画して寄り合った、ロータリアンの相互利益と友愛とを、目的とした地方的集団から、これを国際的範囲にまで拡大し、大きな功績をもった団体に発展したのである。

 

 ただ、人間努力のあらゆる分野を通じて、常に基礎的必須条件たる要因が、そこに存在していたのを見た。すなわち“信念”がそれであった。

信念なくしては、コロンブスも西半球発見の雄図に、逆巻く風浪と闘いおおせなかったであろうし、栄光のガリレオも、忍辱のパスツールも、これなくしては、空しく凡庸の列に帰したのであろう。そして、ロータリーもまた、これなくしては、はかなき烏合の衆に終わったことであろう。

 

 ロータリーの最も独創的な特徴は、いわゆる職業別会員制度、すなわち相異なった業務より各1名に限る代表者を選び、会員とする制度であると、一般世人は考えているようである。しかるに、この制度も決して独りロータリーの創意にかかるものではない。ロータリーが、まだ出現しなかった遥か以前において、この職業別会員制度をとっていたクラブが、すでにロンドンにあったのである。

 

 ロータリーが、このイギリスの同種クラブと異なる点は、その理想を希求する熱意の熾烈で、確固とした性質において存するので、この点がロータリーの特色をなしてきたものである。

 

 復興の要求は、もっぱらロータリーの際限ない地理的拡張にのみあったのではなく、他に何事かが、企てられねばならなかった。すなわち、形体的生長と比例して、目的と理想とを発育せしめねばならなかったのである。

要するに、内観のロータリーは、同時にそれに適応する外観のロータリーたらねばならなかった。広漠たる視野を備えて始めて遠大な希望は実現せられるのである。

 

 このような情勢の下において、ロータリーは最初の公益事業に手を染めたのであった。シカゴ市内に公衆便所を創設し普及したことこれである。

これは、ロータリーの諸事業の中でも、最も功名的なものであったことを、著者は記憶する。

このロータリーの最初の事業は、シカゴ市内のあらゆる重要な文化事業団体をこれに参加せしめ、また、市および各町の支持をも得たのであった。ただし、第1の公衆便所を、ワシントン街とラザール街との交差点の西北隅に建設するまでには、無関心のものや、種々の既成の利害関係と、2年以上も闘い続けねばならなかった。

このようにして、ロータリークラブは、始めてシカゴにおける文化事業団体中に列せられ、市の資産として数えられるに至ったが、この新事業に係わる功績は、むしろ小さなものというべく、それが大きな意義をなすのは、これにならって、世界各地のロータリアンが、同種のサービスを無数に提供するに至ったという点にある。

YMCA会員が、「シカゴ・ロータリークラブは、今やその存在の理由を明らかにした。」といったのは、当時の世人の感想をよく代表するものであった。

 

 ロータリーが、文化事業の畑に足を踏み入れたことは、その内に潜在する目的すなわち利益の欲求を、カムフラージュするための方便である、という人があった。 

著者は、今当時の、他の会員が抱いていた考えが、如何にあったかについては、責任ある応酬はできないが、著者自信の脳裏にあったことは、明らかにいうことができる。

著者は、可能な限りの最善のクラブを建設しようとする考案に、専念していたのである。大拡張の可能性について、一箇の管見をもち、明らかに約束されているロータリーの将来性に鑑み、これによく適合すべきものを、組織しようと望んでいたのである。

 

 同時にそこには、一層好いある物があった。すなわち、不満足が蓄積する恩恵がそれであった。これは、あえて遠隔の他都市、あるいは他国より輸入するまでもなく、その手許において、十分に自給自足し得たところのものである。

 

ヘンリー・フォードは、彼の最初製造の自動車に不満足であった。そうでなくして、彼の自動車工業は繁盛をみることはなかったであろう。彼は、ひたすら自動車の製造を続けた。そうして、時代の歩みとともに、益々斬新な、益々好適な型の自動車を、製造し続けたのであった。

 

 枝を曲げれば、幹は動かざるを得ないように、その一端が解け始めて、ロータリーは旧態を離脱したのである。ここにおいて明敏なロータリアンは、これをシカゴ以外の新地域に携行したのである。

 

 1908年の初め、シカゴ・クラブの一員マニュエル・モッズは、クラブの要望に基づき、サンフランシスコに向かって、メッセージを運ぶこととなった。

彼は、サンフランシスコの市民の中に、適当な人士を求めて、ここに必ず、ロータリーの新設を見ることを誓ったのであった。果たせるかな、同地に選ばれたその人は、若い法律家ホーマー・ウッドであった。彼は、遂によく自己の都市に、世界における第2番目のロータリー・クラブを組織し得たばかりでなく、さらに友人と提携して、第3番目オークランドに、また進んで、第4のクラブをロサンゼルスに設立するに至った。

 

 サンフランシスコ・クラブが、いかに慎重に、かつ有力なものとして設立されたかは、その第1回の集会に、有名なチャールズ・M・シュワップが出席して、演説者となっている点に徴しても明らかである。幾ばくもなく福音は飛んで、シアトルに伝えられるに至った。

 

 ホーマーは、この偉業を完成した上に、さらに、シカゴの希望と呼応して、ニューヨークその他の東部諸都市における、ロータリーの建設事業に協力した。

 

 その播種されたところは、一都市より一都市と、次から次へ、蓄炭器の中に続々と落下して行くようであった。遂に、1910年の第1回全国ロータリー大会に参集したもの堂々16クラブに達したのである。

 

 言語を異にし、習慣を異にし、歴史的背景を異にする80余国の15万人、そして、そのすべてが一致点を有する職業人、そしてまた、人生のあらゆる部面に適合する共通の理想、すなわち、世界に広く知られる奉仕の理想の上に、固く握手しているこれらの人々、それが行動を共にしていることの、いかに尊い特権であることか。 

 

 火曜日、やがて正午である。仕事を一時やめて、シカゴ・クラブの例会に出席する。6〜7百名の実業家や専門職業の人々が、一切の関心事を傍らにおいて、和気靄々のうちに談笑している。

 

昔のドイツ実業家が、ビールに求めた慰安、イギリス人が、午後の茶に求めた休息、スペイン人が、午睡に求めた休養と、その趣きを同じくした完全な安息である。 

近代生活の緊張を破る必要のあることは、神経系統の病気の激増しつつある傾向がこれを明らかに教えている。

 

 友誼に満ちた挨拶の交換、音楽、講演が次々に行なわれる。プログラムは、教養の向上に役立つものばかりである。実生活上の要約された卒業科目のみである。

実務家は、自身を教育する便宜にあまり恵まれていない。ロータリーはその欠陥を補うべき機会を提供する。