ロータリーの創生

This Rotarian Age B)

 

湖畔の一都市を舞台として一場の演劇は開幕した。ただしその劇がいかに展開していくか、その効果いかんは何人も予想しなかった所であろう。登場人物は世の平凡な常道を行く実業家および職業人であって、彼らは必ずしも一頭地を抜くほどの特質を備えた人々ではなかったが、しかし一般的表現における代表的な「優良分子」と言い得るものには相違なかった。

みな時代の自然児にして従ってまたその脆弱性ももっていたが、要するに旧来のアメリカの伝統を学校において、あるいは家庭において十分に吸い込んでいた人々である。

 

 相互に同気親愛の士であって、各人はそれぞれ明確に異なった職業を代表し、性質においてもまたはなはだ懸隔したものを持っていた。彼らは宗教、種族、政治的な異同を超越して選ばれたものであって、あるいはアメリカ人を祖先とし、あるいはドイツ人を、スウェーデン人を、アイルランド人を祖先とした。 

また新教徒あり、カトリック教徒あり、ユダヤ教徒あり、要するにすべてがアメリカという熔鉱炉の所産であって、この意味において集団はそれが将来運命的に世に実現せんとする世界的秩序のために、まことにふさわしい祖先だったのである。

 

 まず集団の一員シルベスターは「石炭商」で、われわれの第一次会長であった。ドイツ人を両親とし天性的に親切で、友に会うや満面歓喜に輝くという風であった。すでに彼は社会事業および教会事業の中心となり、慈善事業には欠くことのできない人物となっている。

 

 次はガスターバスである。彼もドイツ人の両親から生まれた創立者の一人である。ガスターバスの個性は人目を引くものがあった。すなわちまれに見る総合的性格の人で、その美点は直ちにその欠点を補ってあまりあるものであった。

 

 今一人のハイラムは、メイン州から移住して来た洋反物商でまことに敬愛すべき人物であった。

 

 以上の三名と著者とが、そもそもロータリーの会員として集合した最初のグループであって、いわば大軍の前衛であったのである。

 

 第5番目の会員、印刷業者のハリー。彼は職業上に必要な素質に関する限り欠ける所のない人物であって、いかにも正確で直線的で信頼するにたりた。不正直とは彼の理解しえないものであった。

 

 彼はクラブ歌手の役目を引き受けていたが、ロータリーの友愛にあふれる感激を彼はこれによって最もよく表明しうるのであった。われわれのハリーもまた得がたい士である。

 

 ロータリーの著名な唱歌指導者の一人は、クラブの合唱の理由として次の4点をあげている。第1友愛の宣揚となること、第2気分の放出となること、第3音楽への関心をうながすこと、第4歌の選択が会合の目的に合すればよく会員の話題を用意させることができるものであると。

 

 プラトン曰く「音楽を通して人の魂は調和と階律とそして正義の観念をすら学ぶ。調和を得た人に不正義のあることはない。音楽と調和とは神秘を人間にあたえて、これを美化し魂の深奥に導かれるのではないか。音楽は人格を形づくる。そしてそれは社会および政治上のあらゆる事項の決定を分担する」と。

 

 第6番目の入会者ビルは現在不動産業で、クラブの第一次幹事を勤めた。彼の平静といんぎんとは最も顕著なもので、いかなる角度から見ても粗野な所がなかった。いかなる哀傷に直面してもその特質の沈着を失わなかったのは彼であった。

 

 オルガン製造業者のアル。一度彼のにこやかな笑顔を見そのユーモアにふれたものは、彼がロータリアンであることを直ちに肯定したであろう。

 

 この小さいグループの間には各人に仇名を付すことが自然であった。「弁論少年」とはチャーリーの仇名であった。ロータリー規約の討議に際して特にこの仇名が適切であったことが証明された。

 

 ドック。博士の彼は都会育ちで独身でロータリー初期の通人であって、地方出の青年達は「ドック」を羨望の的としていた。彼は流行の服装とその種類方式とに寸分の隙なく通暁していた。

彼はまた有名な乗馬家であって、そのシカゴの大路を颯爽として愛馬に鞭打ちつつ走るスマートな姿は、当時の晴々しかった情景の一つに数えられていた。 

シカゴ・クラブは他地方のロータリアンに対する挨拶の鄭重な点において第一といわれてきたが、これは全く明朗にして情味溢れるわが「ドック」の人となりが代表したところに見られたものである。

 

 銀行家のラッファス。その名ラッファスはロータリーの友人間において愉快にも、また至極自然の響きをもって「ラッフ・ハウス」に通じた。角のとれた最も温和な紳士として彼を知っている人々に、この異名の妙味は立ち所に首肯されるであろう。

 

 次は葬儀社を経営したバーネ。「キューピッド」、こう呼ぶに何の躊躇も感じない程に無邪気な彼であった。キューピッドの矢壺は常に充ち満ちていた。

こうして放たれた矢はほとんどあやまたずに、人の心の標的に当たるのであった。

 

 フレッディーは、一見健康にして柔和、能く人を惹きつける驚くべき魅力を持った偉丈夫である。その特殊の明快さは路傍の人の注意をさえ引くほどで、知らぬものが見直して快い微笑を残して通り過ぎるのであった。

食堂の給仕や商店の店員、新聞売子までが彼には特別の注意をはらった。無意識のサービスである。こうして彼は行く所で最も良き待遇を受けたのであるが、それは彼のことさらにするためでないことは、彼自身のよく知っていた所である。彼はただあくまで明朗で温容な好漢フレッディーであって、いまだかって如何に紳士たらんかを研究したことはない。その必要がなかったからである。生まれながらにして紳士だったからである。

 

 著者は一言勧告したい。「今一つの実験を試みなさい、それはあなたの事業上の疾患に少しだけフレッディー家伝の妙薬を用いることである」と。その妙薬の原料は人間愛である。友愛である。兄弟愛である。好誼親善である。殊にニューヨーク・ロータリークラブについては彼はその創始者として知られている。

 

 いわば人格とはその人の心を覗かせている窓のことに外ならないのではあるまいか。

 人格は生命を育てる力で、圧迫も呪詛もまた祝福も伴うものである。

 人格の徳はまた日々時々に顕現する。国民生活にも都会にも村落にも、また家庭にも工場にも、いやしくも男女の群れ住む所いずこにもそれが現われる。清くうるわしい人格は生活を豊富にし甘美にするものである。

 

 耳鼻咽喉専門家のドクター・ホーレーは教養に富み、親切で責任感の強い紳士であった。ロータリー草創の頃のある会合において身体障害児の問題に関する演説をなし、その後の機会を捉えて最も困苦の一児童のために醵金を募ったのは彼であった。

 

次は有名な内科医のドクター・バックスターである。出でては海外に医学を究め、入りては母校に献金の功をのこした。

 

 それから建築家のボッブは図書館のために尽力するという道楽を持っていた。それからまた当時ある製造工業に従事していた好個の巨漢ハリーがある。現在は隠退しているが、毎年数回カリフォルニアに行ってそこのロータリークラブに欠かさず出席するのは彼である。装飾業のジョン。家具商のマックス。花の一束一束に優しい心遣りを見せた生花商のチャーリー

 

彼らは他の会員とともに、かくもおのおの異なる職業を代表しつつ大都会の一断面をなすものであって、皆それぞれの職業を代表する会員として選ばれた特権の意義と、それに付随する責任の何たるかをよく認識しつつ、広い視野とゆったりとした心の広さをもって互いに友愛信義を重んじていた。

 

 1905年のこの集団の中には雄蜂のように働かぬ人間は一人もいなかった。各人こぞってロータリーのために尽くし、その実践上の問題として様々な考案を持ち寄ったのであった。そのうち今日に実行されているものをあげれば、昼食時の定例会合、会員名簿への写真の挿入、職業奉仕に関する報告書の提出等、幾多のものがある。

 

 昼食時の会合がロータリー・クラブの一特質となった時、あたかも「われらのシカゴを知れ」の運動が開始され、数回の会合が一定の連絡の下に全市の主なるホテルにおいて行なわれたのであった。そしてこの社交的教育的巡回事業にはしばしば婦人も参加した。

 

 会員の若干は農家育ちであり、また大多数は地方の町村から志を立てて都に上って来た青年であった。彼らはもちろんまだ立志伝中の人とはなっていなかったが、いずれも確乎たる目的をもって世に立ったもので、その大部分の人は将来の成功を十分に見越し得るだけの域に達していたのであった。こうした人々が多数で、大学教育を受けていた者は少なかったのである。

 

 彼らの生い立ちは必ずしも安易でなかった。多くは少年時代から働くことを教えられてきたのである。彼らは愛情の深いしかし厳格な父母達から二つの相反した観念を授けられたのであって、そうして彼らは賢明にそのいずれかを選ばねばならなかった。

一つは無為の成り行き任せの悪魔に導かれるがままの人生観で、その到達点は貧困と自尊心の喪失であった。

他の一つは希望に満ちた努力の人生観で、その帰結点は有力の地位と社会の尊敬であった。

 

 その子の将来のために、苦慮して自己を犠牲に供した父や母をもった彼らは、こうした両親を限りなく敬慕していたことは当然で、従って両親の教訓は彼らにとって永久に忘れ得ない深刻な感銘だったのである。

 

 こうして若者達が実社会に身を投じた時、彼らの目標が両親の願望に添うこと、その信任に酬いること、すなわち成功ということに置かれたことはまた自然である。

地方から出て来た彼らは時折り抑え難い寂寞感に襲われた。故郷に残してきた緑の野山や楽しい少年時代の回想に心を奪われる。青々とした草原に代わる坦々たる舗道の街が悲しく眺められる。日曜や祭日には町の中を散策して、休みなくひしめき合っている群集に見入りつつ、幼い友と山野を駈け歩いた楽しかった過去を夢のように追懐するのであった。

 

 またもとより都会育ちの人もあった。彼らは過去の生活にも余り苦しい経験はなく、現前の環境にも適要していた。

いずれも友情には変わりなく、またおのおの「成功」という金的を目指していたことも同じであった。

 

 こうした一致した願望が大体において集団を形成せしめた理由であった。集散は彼らの成敗を決するほどに思われ、誠心と情誼の教えるあらゆる方法をもって互いに助け合ったのである。

これは主として職業上の相互援助すなわち「成功」に向かっての相互援助であるので、互いに必要に応じて力の及ぶ限り相談し後援し合った。ことに同じ職業の人が2人いなかったということは、相互援助を一層円滑にしたものである。

 

 ロータリー初期の目標は利己であったという人がある。あるいはそうであったかも知れない。しかし自分の生涯の内最も非利己的で甘美であった時代は、1905年のシカゴ・クラブ員当時であるといっている人もあるのである。

利己的であったか非利己的であったかは、結局、会員が何をもって愉楽となしたかによって定まるであろう。

もし会員が彼自身の利益を図ることをのみ願ったとすれば、そこに存したものは利己だったのである。反対に他人のために尽くすことをもって愉楽としたとすれば彼は非利己的だったのである。

この錯綜した思想がわれわれの古きシカゴ・クラブには絶無であったといえないことは、どこにおいても免れ難い極めて自然のことであった。

 

 会員は相互の職業生活を見聞しようとする趣旨から、そのいずれかの事務所において会合を催すことにした。かくて各人の事務所を循環的に会場にあてたことが、『ロータリー』(巡回)なる会名を採用するに至った主な理由であった。

 

 ロータリーによって実現された職業上の利益はともかくも、すべての会員が実現し得た利益は“友誼”であった。

彼らは都会生活の砂漠の中に“オアシス”を発見し占有したのであった。神の選民とも言い得べきこの少数の人々は、ひたすら友愛の法悦に浸ろうとしてこのオアシスを訪れるのであった。もはや何人も公園などに行って過ぎし日のことを追懐する必要はない。「幸福の日は再び回って来た」のであった。

 

 ロータリーは当時の他のクラブの会合と初めからはなはだ趣きを異にしていて、会衆相互の親密の程度にはるかな相違があったのである。互いの呼び名にはクリスチャンネームを用い、「何某君」「何某さん」等の敬称は互いの心の自由な流露を妨げるおそれがあるとしてこれを廃していた。

いわば人々は再び“少年時代”に還ったのである。

 

 オーストラリアのロータリアン、サー・ヘンリー・ブラッドンは、かって言った。

「ロータリーが個人を向上せしめる方法の一つは、彼の内に童心を保存せしめることである。

およそ善良な人間の胸底を深くさぐればそこには常に必ず童心がある。少年の人生を眺める目には汚れがない、邪悪と僻見がない。あるものは強い熱意と親しみとで、すべてはわれわれの望み求める資質である。

歳月の移り行くとともに童心は影を潜める。わが童心去れりと告白せざるを得ない人は悲しむべきである。しかし年齢は見方によっては、戸籍面の数字に関する問題ではなくして精神上の状態に関する問題である。

理念が鈍り情熱も衰える時、われわれは老いの坂にあることを知らなければならない。背後に積み重ねる歳月の数は別問題で、その頭脳に弾力性をとどめる間、他人の友情に反応し得る精神力を維持する間、人は決して老い朽ちないであろう。人を発展せしめ長く童心に生かそうとするもの、これがすなわちロータリーである。」

 

 人間はすべて自由かつ平等に生まれてきたものであるとの観念は、自然に彼ら初代ロータリアンの思想の一部をなし、従って何らの紛議なしにそれを是認していた。

新教徒、旧教各派の信者、ユダヤ人、アメリカ人、ドイツ人、スウェーデン人、アイルランド人、その何人でも。すべてが幸福な一体に融合同化して、燦たる栄光の途上に立ったのであった。

 

 思想傾向も同じ、伝統習慣も同じ、長所も同じ短所も同じという人とは、互いに好んで交際したく思うが、同時に伝統を異にし経験を異にする別人との交際にも、好奇心をそそる書物のようにまた魅力があるではないか。

 

 1905年のシカゴ・ロータリークラブの会員は、あくまで友好を尊重したゆえをもって、彼らの間には宗教上および政治上の議論は友好を妨害するおそれありとしてこれを禁じていたことが、後に至って非常に有意義であったことを証明した。

ために爆発性の素因を含む様々な問題が起るべくして起らなかったのである。その教程はきわめて簡単であった。

曰く。「共通の仕事に協力せよ、意見同じからざる問題はこれを避けてあえて論議するなかれ、然らばわれらは友愛をもって報いられるであろう。」

これは集団が一層大きくなればなるほど、ますます採用されなければならない教程であった。

 

 こうした防ぎ難い人間の非行を消滅させるためには、相異なる宗派および相異なる国民の間に理解と親善の関係を増進させなければならない。

 

一個人、一宗派、一党派、一国民が、他の個人、宗派、党派、国民を憎みさげすむのは、彼または彼らがその相手を知らないからであるに過ぎない。憎悪、軽蔑の底に横たわるものは無知であり、無知は平和の脅威である。

                                  

 1905年にはなはだ簡単に幸先よく開始されたロータリーの、相異なる民族的集団ないし宗教を異にする人々の間に友愛の関係を鼓吹しようとしたプログラムは、今日までいかなる外交上の協定商議よりも大きな成功を収めてきた。 

その間、ロータリーの採用してきた方針は、会員の意見が相分かれる問題はこれを避け、その総意が一致し得る事項に焦点を定めてこれを強調するというにあった。

かくてロータリーがよく宣揚し得たところは、友愛は民族的および宗教的障壁を容易に飛び越え得るという事実であった。

 

 信仰は個人の所有物で彼はそれに権利をもっている。その国籍はその人の好んで選んだものでなくても、彼は自国を尊重する権利がある。

すべての国家は世界という巨大な家族の一つとして、それぞれ名誉ある位置を占めるものである。

 

 唯我孤立は優越ということを複雑にする。そうして複雑した優越は紛糾を生むもので、永久の優越は有史以来いかなる国民もかって実現し得たことはない。 

盛衰興亡は世の常である。ある時代の間すべての国民の上に君臨したものも、次の時代には他の国民のためにその地歩を蚕食されることがある。一国民の長所そのものが、しばしばその国民の弱点であることを暴露する。

成年の後には老年が来り爛熟の後は凋落である。これは撤回することも変革することもできない自然の法則である。

 

 各々その母国に対する忠順を表明する権利を持つことを是認するものである。著者は信ずる。国がどこであっても何人も母国に不信であっては、よく自己を発揚し得るものではない。何人も母国をあくまで敬愛しなくてはならない。

そうして母国を愛せば当然母国に対する敵を作らないことに心して、母国を敬称するために特別な、ある意味において嘲弄的言辞をもって呼ぶようなことを許さないという決意をもつべきである。いやしくも母国をざん訴するような態度に出る人は結局己れの無知を表白するものであり、さらにざん訴をもって他人の友愛を買おうとするような心のもち方は最も卑しいものである。

他人の尊敬をかちうる最善の道は、儀礼の公道を単純に遵奉することである。

 

 各種の民族、各種の宗教の人々から成った1905年のロータリアン・グループが、あくまでも強固な結合を維持して来た道は完全な宗教自由の実践であった。

 

 チャールズ・ラムがたまたま街路を横切ってくる一人を指し、そばの友人に、「僕はどうもあの男を好かない。」と言ったのに対し、その友人は、君が彼と「知り合い」であるとは知らなかったと答えたところ、ラムは苦笑しながら「僕はあの人を知らない、だからあの人を好かないのだ。」と告げたということである。

 

「知り合い」の光の前には「嫌い」は影をひそめる。世界平和の最善の保証は親善である。各人種間には根本的な背反点はほとんどないはずである。何人も正義、名誉、尊厳、敬愛を憧憬する。そして何人も不正、不名誉、不正直、憎悪を軽蔑する。

よく知らないがために疎んずる心理の動くのは人情である。よくこれを知れば反対の結果を見ることもまた人情である。互いに知って友愛にまで成熟すれば、争いの機会は遠い彼方のものとなりおわるのである。

 

 ただし、ロータリーは禁酒問題に参加したものではない。ただ現実においていずれの国にあっても、ロータリーの集会には酒を用いないことが特徴となっていることで、従ってロータリークラブには酔態というものを見ないのである。