シカゴより何の善きものか出ずべき

This Rotarian Age A)

 

ロータリークラブが一地方においての、実業あるいは専門職業の歴然とした各方面の一人を限って会員とするわけは、おのおのの実業および専門職業の中から、ロータリー・クラブに有力で活動的な代表者を挙げ、ロータリー・クラブは、その会員を通じて同地方における、あらゆる実業および専門職業に従事する人々との交渉に、責任のあるしかも直接的な通路を得るためである。 

 

 ロータリー・クラブの集会出席は義務的なものである。理事会の認める所の許可がなく、4回の継続欠席をしたものは会員の権利を失う。しかし、その欠席の直前後の週間に、他のクラブ集会に出席した会員は、自己のクラブに出席したものと同一に計算する。

 

 南北戦争後の四半世紀中に、シカゴは開拓者の部落から将来有望の新都市へと一挙に発達した。  

 1870年およびこれに続く数年間はダッド・ディアボーン(シカゴの仮称)の最も躍起を試みた時であった。1870年10月9日にはそこに立派な都会を持っていたのに、10月10日にはそこに炎々たる火災が起り、10月12日そこには漠々たる焼跡の外何物もなかった。

 

 シカゴは、二十世紀の初期に入っても、なお開拓者部落特有の風俗人情を多分に持っていたので、そうした社会に第一につき物の、極道ともいうべき賭博は公然であった。酒場が盛んになり、密会所がこれにつぎ、高架鉄道の下は醜類により、あたかも巣に群がる蜂のようであった。

 

 いやしくも、このような世態が是認されていたという理由の中には、商業化された罪悪の隣に、真面目な実業の存在する機会が少なくなかったという点もある。 

何らかの異変が起らぬ限り、事態はそのままの推移を継続する外はなかったのである。これは実業の勢力範囲に属する問題ではなかった。

 

 酒舗と酒舗の間に混じって、無数のサロンが存在し、そのあるものは、犯罪と政治的腐敗の培養所であって、そうでないものも、あえて他人の事には容かいする必要はあるまいという態度をとるていのものであった。

禁酒令以前のシカゴを知っている飲酒党も禁酒党も、この厄介な論題に関しては、その見るところを一つにする点があった。それは、その当時のサロンが決してよき資産ではなくして、悪しき負債であるということである。

 

 ある人のいうように、当時のサロンは、貧しい人間の集会所であったが、同時に、それが多くの場合、彼らの家庭でもあったのである。

サロンに出掛けることは、多くの人々にとって、絶好の屋内遊戯であったと同時に、またある者にとっては、規則的な勤務先のようなものであった。サロンの誘惑は、交を求める人間のおさえがたい欲求のうちに存在していたのであった。

一たびここにおもむけば、たちまち肉親同士のような愛情はただよい、アルコールの昂奮が、人と人との間の障壁を、見事に打ち破る役目を果していた。

うらむらくは、相互の障壁ばかりでなく、各人の自尊心をも、撲滅するのであった。堅固な人は、そうした放逸に抗して、しばらくは自分を抑制し得るのであるが、所詮は、アルコールの支配に征服されてしまうのが通例であった。

 

 シカゴのサロン時代は、同市がいまだ浄化されていなかった時代であるという特別の意味があるとしても、この悲しむべき事実は事実である。

当時のシカゴには、今日に見るような、よく整備した市街を約束するような面影は、商業区にすら全く見えなかった。

下水は極度に不完全で、街路にはその町筋の特質を代表する種々の悪臭が、息をついて流れていた。こうした臭気の紛々たる中を歩いてみて、新来者はわずかに牛馬に荷付けをする町、膠を煮る町、漬物を製造する町くらいを、かぎわけ得るに過ぎなかったであろうが、シカゴに長い間嗅覚の修練を経た者は、眼をとじて進んでも、その方向をあやまらなかったことであろう。

 

 シカゴ川は、汚物や家畜置場から流れ出る脂肪を、河口にむかって運搬する役目を負って、物憂く流れていた。このくさい積荷が、河口にいたって荷卸されるミシガン湖は、実に市民の用水の源泉であった。

混濁の河水は、それ自身の臭味をもまじえて、複雑極まる悪意を発散しつつ流れ、時には、その油ぎった水面に、不用意に投げ捨てられた紙巻煙草の吸殻から火を発することすらあった。しかし、不潔物は結局、目的点に流れ着いて、飲料水を思うがままに汚毒し、あらゆる伝染病を、次から次へと流行させることができた。

 

 事態が余りに悪くなると、それ以上には悪化し得ない。ただある変化がきて、そこから始めてよくなっていくよりほかはない。果たして、ついにぼっ発した世論は起って、この醜悪な河川を正反対の方に転向せしめた。

すなわち、河水をその有害な混合物と共に迂余曲折させ、これをイリノイとミシシッピ−の渓谷に落下させ、中途自然の浄化作用を行ないつつ、メキシコ湾の清き潮に注ぐことができたのである。禍を転じて福となしたのであった。

 

 この市民衛生の復興は、六百万ドルの経費を要したが、それだけの価値は十分にあったばかりでなく、さらに一層、大規模な新計画をよび起す刺激となったというべきものは、インディアナ街からエバンストンへかけて、市を美化しようとの計画である。ダニエル・バーナムの「都市美化論」の夢は、「シカゴ市美化計画」として実現したのである。

現在その工事は徐々に、しかし確実に竣工に向かっている。ある人が、シカゴの水に面した一帯の地を評して、20マイルの仙境だといったのは適評であって、美と醜とがなお錯然と雑居して、不統一ではあるがそれがシカゴである。

 

 19世紀の終りに近く、第一回万国博覧会直後の不況期は、シカゴが零落した最悪の時代であった。

貧窮の笞ほど過酷なものはなく、大衆はその最下底にあえいだ。所有する者は失うまいとして闘い、失った者は、わずかに生活の糧を得ようとして争った。 

借家人は家賃を怠り、借金者は利子を怠り、小売商人は卸先への、卸売商人は製造元への支払いを怠った。裁判所は不法侵入、監禁願、貧困保護、抵当処分、失権回復、差押えなどあらゆる事件で充満した。貸手は天才的弁護士の考案し得る限りの手段をつくして、無資力の借手から貸金を取り戻そうとした。

 

大吹雪があって、街路の埋もれるのをむしろ歓迎したほどで、人間の浮荷や捨荷を拾いあげて、臨時の仕事を与えることができたのである。飢えたるものには、いかにしても食を与えざるを得ない。この場合、何らかの与えるべき仕事のあることは、せめてもの幸いとされた。怠惰は不幸を助長する。

 

 第一回シカゴ万国博覧会閉鎖後の、惨たんたる光景は容易に忘れがたいものがある。これに加えて、シカゴは全国を席巻した金融恐慌の第一撃におそわれたのであった。すでに、博覧会にそなえるための過剰建築の現象が、市のあらゆる方面にあらわれており、その結果は、当然悲劇でなければならなかった。 

閉鎖された店、劇場、ホテル、アパート、貸事務所などは、貼り散らされた売家または貸室札と共に、悲痛な圧迫感をそそっていた。

 

 場末の裏町に至っては、心のうずくような貧困の光景が、随所に目撃された。職は最小限に減じてしまい、スープ店が到る所にできた。

市の公会堂より巡査派出所に至るまで、公共建物は、一せいに寒い夜を家なき男女や子供らに提供するため、徹夜開放された。獄舎は、扉のおさえきれぬまでに充満した。ただそこに繋がれるために、軽罪を犯すものすら多かったのである。 

いかにして出獄するかというより、いかにして入獄するかが問題であった。懲罰監禁6ヶ月が大いに歓迎されたことである。

 

 こうした逆転にであった初期の実業家は、当時としては、相当に高い道徳水準を維持していたにもかかわらず、たちまちこれを放擲して、一般的な奪い合いに参加していった。

「奉仕第一、自己第二」の標語の如きは、淡き月影ほどにも認められず、「自己保存第一」ということのみが、人々の支持を買ったのである。

 

 当時は、腐敗した実業社会と、有効に戦うだけの商業会議所などの組織は、いまだ見られなかった。わずかに、信用業務に従う人々の、協会のようなものがあったが、これまた、ただに消極的自衛を目的とするものに過ぎなかった。しかし、この間にも一つの見すごしてはならぬ勢力があった。市民の胸中にひそむシカゴ伝来の“I Will”の精神これである。

 

しかし、惨火の跡ばくばくたる焦土に再びたったシカゴは、四面楚歌の中から、おどり出るだけの闘争力を持っていた。浮沈を極めたシカゴは、浮沈のゆえに成功した。鍛えられた抵抗力は、あらゆる場面に役立ったのである。

 

「シカゴより何の善きものか出ずべき」。

今日までに、シカゴに生まれた幾多の雄勁なる人間は、しばしばこの疑問の言葉を投げかけられたのであるが、ロータリーもその選にもれていない。

あるいは、ロータリーのようなものは、一そう朗らかな空の下に、一そうおだやかな気候の下に、そして精神的動揺のない都会に、生まれ出ずべきものであると、考えることは無理ではなかったかも知れない。

しかし他面から見れば、市民生活における、文化的正義のための聖戦が、熾烈に戦われていたシカゴのような物情騒然とした都会こそ、ロータリーのような運動の発祥地として、最適の地であったとも考え得るのではあるまいか。

 

二十世紀の初頭に、シカゴが悩んでいた病患は、同じく他の各地にも流行し、一般的に、実業界は邪道に踏み込んでいたと言い得る。

消費者、競争者、あるいは被傭者の問題に関する実業道徳の水準は、決して高いものではなかった。「購買者自衛主義」が消費者に適用され、そうして競争者の悪意と不誠実とは、まさに破壊的な極点にまで達していた。

競争相手を傷つけるくらいのことは、奨励はしないまでも、正当なこととされていたのである。「購買者自衛主義」の標語に、「そして競争者を地獄におとせ」と付加してもよいのかも知れなかった。

 

 鉄道会社は、同業競争者を打倒するために、往々運賃を実費をはるかに下まわる値段にまで、引き下げることがあった。はなはだしきは、競争相手から貨物をうばいさるために、無賃輸送すら敢行したことがあって、ある2つの鉄道が、火の出るような競争を行なっていた時の話がある。

シカゴからニューヨークまでの家畜の運賃が、貨車一輌150ドルからただの1ドルに引き下げられた。ところが、その競争の結果は次のような事情から勝利者(運輸量における)が敗北者となった。すなわち、貨物の争奪において敗れた方の鉄道は、敵の知らぬ間に、西部における家畜の貨車積何千輌分かを買い占め、その相手の鉄道によって東部に運び、普通価格より一輌当たり100ドル値引きした価格をもって売ったのであった。

 

 また、海運会社に対抗し、これを破壊する目的をもって、鉄道運賃が実費に関するところなく、切り下げられたことがあった。そして、その目的が達せられるやいなや、運賃は速やかに旧率に復したのである。

州内商業委員会、ないしは州際商業委員会の設定されるまでは、右のような事態に対し、公衆は何らの発言権をも有しないのであった。公衆の見地よりする鉄道事業の統制などということが、如何に軽視されていたかは、当時の鉄道界の一有力者によって、吐かれた次の数語がよく表明している。

いわく「公衆は地獄におちよ」と。

 

 しかし、諸般の商事法令が発布されるに及び、事態は公衆の有利に旋回し、昨日までの迫害者は、利益割戻制のために逆に圧迫されるにいたったのである。

 

 次の無謀なこのつかみあい時代における、被傭者の労務は最低極限をもって売買された。もっぱら、人道的方面より被傭者についていえば、唯一の人間的要素と考えられていた主人の意志または気紛れによって、被傭者は、勝手に使用される補助物にほかならなかった。

 

 そもそも、社会全体の思想が低調であった。当時の富豪は、その富を子孫に残すほか、他になすところを知らなかったが、また継承者は、自分自身のために、あるいは社会のために、その富を善用し得るだけの用意を欠いていた。

いわゆる金持の子息なるものは、親の遺産を酒と女と愚劣な歌でも歌うようなことに、浪費する場合が多かったのである。閑暇の利用には、実務の修練より一そう慎重な用意がいる。

                                  

今日の青年訓練というようなことは、問題とされなかったのみならず、実務に没頭していた父は、他をかえりみる暇がなく、腕力を加えるのを必要とする場合の外、子供の薫陶は、一切母に委ねておくというのが一般観念であった。

「母」なる言葉には、深い尊い意味が持たされていたが、「父」なる言葉は、暴君ないし不当な譴責を暗示するのが通則であった。

 

 しかし、不逞の実業家、悪徳政治家、ないしは賭博場、魔窟、酒場などの経営者も、無障碍のみちを、闊歩していたわけではなかった。反対勢力は、各方面から動員されつつあったのである。動反動の原理は、昔のニューイングランドにおけると同様に、作用していたのである。

 

 東部から一青年がきて、シカゴを訪問した。彼の見る所では、煤煙、空気と水の不潔、悪臭、政治的な奸策、その他諸般の社会的欠陥は、皆一時的現象に過ぎなかった。それらは、頽廃の証拠にあらずして、むしろ躍動の証拠であって、大都会に導く標石の変形に、外ならなかったのである。

 

今や、彼の先見を記念する如く、市の南部には「シカゴ大学」が、屹立している。北部には「ノースウェスタン大学」と、カトリック派の二大学が、景勝の位置を占め、西部には、「イリノイ大学」系の数校の専門学校が、公立病院付近に、これまた地の利を得て散在している。

 

 テオドラ・トーマスは、「シカゴ管絃楽団」を創案し実現した。今一人の幻覚に富んだ不屈のシカゴ人は、豪華な「美術館」を設立した。その他、「シカゴ・グランド・オペラ劇団」、「フィールド博物館」、「プラネタリウム」、「ローゼンワルド産業陳列館」、「大養魚場」、「歴史協会」、世界第一の大歩道設備、5千4百エーカーの公園、および遊覧地区など、みなこれ堅忍不抜のシカゴ人の所産である。それなのに、彼らの名は、カポネデリンガーほどには知られていない。

 

 邪悪な勢力に対する強烈な反撃は、あらゆる方面において見られた。ドワイト・ムーディー、ビリー・サンデーおよびポール・レイダーなどが、このような危険な濁流の真只中において、福音伝道の生涯を開始したことも、また、「シカゴより何の善きものか出ずべき」という疑問に対する、立派な回答を提供するものであろう。

彼ら3名の伝道者が、相寄って盛り上げた悪への拮抗力は、実に旺盛なものであって、驚くべきことは、それが全合衆国に伝播したばかりでなく、さらに海を越え、他国へまでも伸展したことである。

 

 また、西部のある一小村で、教鞭をとっていた若い婦人があった。彼女は、病弱と貧困のうちに、生活苦を続けていたが、善と悪とが、猛烈に戦いあっている激動の都市シカゴを、傍観して暮らすことができなかった。

それが今日、「婦人キリスト教禁酒同盟」の名と共に、フランセス・ウィラードの名が、アメリカ婦人の胸中に永久に存在している結果となったのである。

 

 今一人の村娘ジェーン・アダムスは、アメリカの「ロンドン・トィンビー・ハウス」とも見るべき「シカゴ・ハル・ハウス」の生みの母であった。

これは、その勇気と自己犠牲の精神とをもって、シカゴの最悪の街頭に、永遠の別世界を開拓した人間があるという事実の好適例で、醜悪な巷の中に、類似した他の幾つかの事実を、発見するのに困難ではない。

 

 シカゴの物語は、断じて罪悪と腐敗の記録のみではない。かえってこれは、信念に生きた強固な男女の生活の物語であって、嘔吐を催すような醜悪な事実のみが、シカゴ精神の表現ではない。

ただ、不幸にして悪の事実は劇的であって、人目をひくがゆえに、世人はもっとも広く、これに印象づけられてきたまでのことである。

 

 ロータリーは、その発祥の都市について毫も恥ずべきではない。愛国心と理想主義精神の基礎に立ち、熱情と勇猛心とに支持された輝かしい諸運動に続いて、ロータリーは出現したのである。ロータリーのような運動の発芽期としては、20世紀の初頭ほどに絶好な時期はなかった。同時に、それを育成して確固たる方向を示すべき土地としては、この攻撃的で男性的な、しかもエセ理屈の多いシカゴほど、適切な都市はないのであった。 

 

 シカゴのいわゆる“I Will”精神とは、そもそも何か。「第1回シカゴ万国博覧会」の建設者であり、「シカゴ市美化計画」の設計者である、不朽の名匠ダニエル・バーナムは答える。

 

「計画は、小さいものであってはならない、小さい計画は、人々の血を沸かすに足らない。また恐らく実現もしないだろう。計画は、ぜひとも遠大なものであるべきである。

宏壮な論理正しい設計図は、一度描かれたら決して死滅しない。設計者の後に残って、さらに切実さがますことを願って、ぜひとも希望と実行の高遠なものを期すべきである。

われわれの子孫は、さらに大いにわれわれを驚嘆せしめる何事かを、なすものであることを忘れてはならない。汝の座右銘を正せ、汝の警標識を明らかにせよ。」