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まわり始めた歯車
(ポール・ハリスーJ.P.ウォルシュ著)
ハリスが新しく作ったクラブを構成しているのは、自らの事業で既にある程度の成功をおさめた人が殆どであった。初期の会員の大半は小さな町や村からシカゴに出てきた男達で、クラブ組織はすぐに彼らの心をとらえた。
何よりも、つまらない規則にしばられないというのが、魅力だった。男達は、融通のきかない規則や、慣例のないクラブに惹きつけられた。ロータリーは入って愉快なクラブであり、社会的地位に関係なく、会員同士が互いに名前を呼びすてにできるという伝統は今日に至るまで続いている。
ロータリーは、会員同士の親睦を深め、事業上での新しい関係と同時に、広く知合いの輪を拡げるすばらしい機会を提供した。もう一つの魅力は、簡単には入会できないことであった。
そのおかげで、会員であることが一つのステータスシンボルとなるのに時間はかからなかった。幸運にも会員になれた人にとって、クラブは大都会の孤独の中で、“砂漠のオアシス”にも似た存在であった。
クラブのおかげで心の渇きがいやされ、生活が大きく変わった会員もいた。彼は精力的に働き、人にも同様のことを要求した。1906年には、いまや伝統行事となった【夫人の夕べ】が始まり、主人がどんなクラブに入っているのか、夫人達にもわかってくるにつれ、会員はさらに急速にふえていった。
ロータリーの創始者として内外に認められているハリスが、クラブ結成以来3年の間、いかなる役職にも選ばれなかったのは何故だろうと、ロータリー会員も会員でない人も一様に、よく不思議に思った。実はハリス自身が3年にわたる形成期の間、いかなる役職につくことも拒否したのである。
彼は建設者よりむしろ“設計者”であり、日々の運営は他の人に任せていた。しかし、クラブの活動の方向を決めていたのはやはりハリスであり、役員もふつうはハリスが任命していた。
会員が着実に増え続けた最初の二年間、ハリスはクラブの活動を懇親を中心としたものに限った。こうして、形式ばらず、気楽にくつろげる雰囲気の中で、皆が楽しみ、【親睦】をはかる精神を広めたのだった。この方式は大成功だった。
ハリスが会長になるまでは、会員の取引上及び社会的な便宜に重点がおかれていた。取引上かなり利益を享受した会員もいるかわりに、そうでない会員もいたが、仲間同士の親交からうまれる力とその有難味は全員がよく認識していた。ハリスが次にやったのは、その力を難渋している人へ向けることだった。
ハリスの見事な指導のもとに、私利を得ることよりも他人のことを案じる方へ会員の関心は傾いていった。このような動きに反対する会員もいたが、ハリスは動じることなく、目的の達成に向かって根気強い努力を続けた。
ハリスは活動を3つに分ける短期計画を立てた。
まず第1にシカゴ・クラブの拡大を図り、
第2にニューヨーク、サンフランシスコ、ニューオーリンズといった都市へこのクラブの理念を広めるよう努め、
第3に運動の目標の中に社会奉仕の理念を導入するよう努めるという計画だった。
【社会への奉仕】という概念は、クラブの創設理念からは大きくかけ離れていた。会員達は全くの酔狂としか思えないこの概念に対して、慎重な態度をとるばかりでなく、すでに手に入れたよいものを失う危険にさらそうとはしなかった。従って最初のうちは、ハリスの熱心なすすめも余り顧みられなかった。
ハリスはそれでも、いささかもくじけず、社会奉仕を導入する一番実際的なやり方は、何かやり甲斐のある仕事をみつけ、会員を勧誘してその仕事につけることだと考えた。ハリスの強い支持者で、市民としての奉仕活動を高らかに主張してきたドナルド・M・カーター会員の助けを借りて、結局はこの考えが実行された。
ちょっとした出来事が、一人の人間の人生や歴史そのものの方向を変えてしまうことがある。たまたまこの頃、シカゴの市民運動のリーダー達の間で、【公衆便所の設置】が考えられ始めていたが、先頭にたってやろうという人がまだ出ていなかった。ハリスは時機到来とみた。まだ市民の大半はクラブの存在を知らなかったが、シカゴ・ロータリークラブの会長として、ハリスはこの問題を検討するための会議を呼びかけ、すべての著名な市民運動のリーダー達に招待状を送った。
当時シカゴには、公衆便所の設備は“酒場とデパート”にしかなく、しかもこれらを利用できるのは酒場やデパートの常連客に限られていたことから、既得権が危くなった方面から委員会に強力な圧力がかかり、ハリスや仲間の市民運動家達の活動は困難をきわめた。
ここでは初の公衆便所が市役所の屋上に、ついに完成したことを記録するにとどめておこう。この設備は、ロータリーが初めて公共事業に参加した記念碑であり、社会奉仕活動をした最初の例として今でも同じ場所に残っている。
鋳鉄製の入り口は、市役所の堂々とした柱と隣り合わせで時代遅れの感はあるが、内部の設備は70年以上前と少しも変わらず、市民の役に立っている。
“他人への奉仕活動”に専念する組織というものが、充分成立しうることを彼は会員に実証したのである。将来どんな奉仕活動をするか、彼には恐らくまだ見当がついていなかったであろうが、時と社会の要求が、クラブの活動の方向を決めてくれるだろうと彼は信じていた。
1908年から1909年の初めにかけて、“黄金の西部”の4都市がロータリーの価値を認め、またたく間に第2から第5までのクラブを設立した。
おかげで、1908年にはロータリー拡大反対の声も幾分収まったようであった。名誉ある第2番目のクラブはサンフランシスコで、設立に尽力したのはシカゴ・クラブの一会員であった。
1908年の11月、ウッドは世界で2番目のロータリー・クラブの創設者として、ロータリーの年代記の中で名誉ある地位を獲得した。さらに1909年には、サンフランシスコに近いオークランドに3番目のロータリー・クラブを設立した。シアトルに第4のクラブを設立するのを手伝い、ロサンゼルスに5番目のクラブを設立した。
1908年には、ハリスにとってハイライトとなる事件がいくつかあった。
シカゴ・クラブの会長に再任した当夜、彼はロータリーの歴史上忘れることのできない二人の人物を入会させた。
その二人というのはチェスリー・R・ペリーとアーサー・フレデリック・シェルドンである。
シェルドンは予約図書販売業を営んだのち、セールスマンのための学校の校長となって大成功していた。「最もよく奉仕する者は最も多く報いられる」という標語を生んだのはこのシェルドンである。
1908年はハリスにとって、また別の意味で忘れられない年だった。そしてハリスにかかわるある事件がシカゴ・クラブに大混乱をひき起こしたのである。
さる会合で、イリノイ州出身の下院議員ジョージ・P・フォスター会員に、ハリスを攻撃し、弾劾する芝居をさせようという計画がもくろまれた。
ハリス自身もよく悪ふざけをする人だった。適当な頃合を見計らってフォスターは立ち上がり、びっくりしているハリスを前に、ロータリーの運営方法について痛烈に批判した。その芝居は余りにも真に迫っていたので、ハリスはその場で辞任し、クラブは大騒ぎになった。この騒動の傷あとが癒えるのにはかなり時間がかかり、以後この種の冗談は一切禁止された。
1908年の十月、自分の組織能力がロータリーの拡大に必要だと気づいたハリスは、余った時間のすべてを拡大活動につぎこむため会長の職を辞任した。
この頃にはハリスの頭の中に、各地域社会に奉仕する全世界のロータリアン同士が親しく交わる姿が描かれていた。チェスリー・ペリーはすでに拡大方針に賛同する方向に転換していたので、二人は全米の大都市や、その他の地域に対して、「訪問もするし、必要とあらば講演をしてもよい。」との手紙戦術を展開した。
二人のキャンペーンは実を結んだ。1909年には7番目のクラブがボストンに誕生、ロータリーは太平洋岸から大西洋岸まで広まった。こうなるとハリスばかりでなく、拡大策に反対していた“うるさ型”の大半までが有頂天になった。
ロータリーの運動は人気を博し、その勢いはとどまるところを知らなかった。ハリスとペリーの拡大活動は、2人が町から町へと飛び歩き、力強い演説を行なってクラブの設立を奨励するにつれ、新しい広がりをもつようになった。
シカゴ・クラブの会員は相変わらず増え続けていた。
1909年の一番突飛な出来事としては、ロサンゼルスで“第二の”ロータリー・クラブが設立されたことだった。これはハーバート・C・クイックという実業家が始めたもので、正式なものではなかった。クイックはこの頃失業中で、自分で厚かましくも『ロサンゼルス・全米ロータリー・クラブ』と名付けた組織を作り、その会員権を売ることですばらしい金儲けができると考えたのだった。
シカゴではこのため大騒ぎが起こり、提唱者達との間に激しい文書合戦がまき起こった。しばしの間この泥仕合が続き、1912年になってようやく、それぞれのクラブから1人ずつ分別のある代表が出て、両者の違いを徹底的に検討した結果、ライバル同士のこの2つを1つのクラブにまとめることに成功した。
そうして、大会を1910年の8月15日から17日まで、シカゴのコングレス・ホテルで開くことが最終的に決められた。
第1回大会では、基本構成として、各クラブは会員50名について一人の代議員を出すことが認められ、当時16あったクラブの総会員数は1800名だったので、大半のクラブが少なくとも2人の代議員を送ることが可能だった。
数にすれば29人しかいなかったのだが、熱烈な会員である代議員達は、自分達の任務に本腰を入れて当たり、『全米ロータリークラブ連合会』なるものを作るための会則づくりに専念した。
わずか1日か2日のうちに、これらの先駆者たちは国際ロータリーの前身を生み出したのである。ハリスは全員一致で協会の初代会長に選ばれ、ハリスと同様献身的で、大会の議長を務めていたペリーは事務総長に選ばれた。大会終了後、直ちにファースト王会・ナショナル銀行ビルの中に事務所を設け、全米ロータリークラブ連合会とシカゴ・ロータリークラブの両者の本部となった。
全米ロータリークラブ連合会ができて間もないうちに、なんと今度は『国際ロータリークラブ連合会』と改名しなければならなくなった。シカゴ・クラブの会員であるウィリアム・ローダーが、クラブの例会に彼のいとこでカナダ人のP.A.C.マッキンタイアを連れてきたのである。マッキンタイアは強い感銘をうけ、ハリスとペリーに会見を申し込み、ウィニペグに戻るとすぐカナダで最初のクラブの創設に着手した。彼の予想ほど早くはできなかったが、それでもついに1910年の終わり近く、正確には11月3日、彼はウィニペグ・ロータリー・クラブの創設に成功した。これで合衆国以外での初のクラブが誕生し、ロータリーを国際的な運動へ脱皮させることになったのである。
1910年は、ハリス、ペリー、そして二人を支援する賛同者達にとって成功の絶頂といえる年であった。