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ロータリーの起源
(“ポール・ハリス”―J.P.ウォルシュ著)
1905年2月23日木曜日の夜は、身を切るように寒かった。空は晴れていたが地面は鉄のように堅く、川や湖には厚い氷が張っていた。その当時、世界を苦しめた病魔はアメリカにも、そしてシカゴにも蔓延していた。景気は悪く、汚職と犯罪がはびこり、人々の心は沈滞しきっていた。
その夜、ハリスは、顧客でもある友人と夕食を共にすることにした。客の名はシルベスター・シールといい、石炭の商売をしていた。二人がマダム・ガリのレストランで好んで食事をしたことはよく知られており、マダム・ガリの店はハリスの大好きなレストランの一つであった。
ゆっくりと食事をしながら、ハリスはシールに実業家や知的職業人のための新しいクラブの構想について、あらましを説明した。そうした人々は社会的な目的のために団結するだけではなく、お互いに実質的に助け合うのだ。
会員一人一人がそれぞれ自己の特定の仕事、職業をひとりで代表することにユニークな利点があるのだ。こうしたクラブでは、法律関係の仕事があると会員は皆ハリスの弁護士事務所にもち込み、石炭が必要になればシルベスター・シールに注文することになろうといった具合である。こうして、【相互扶助】を前提にすれば、各々の会員がお互いの顧客から利益を享受できるというわけである。さらにハリスが強調したことは、入会した会員は自然と友達になり、仕事上の知合いにもなり、その結果、互いに公正な取引をして互いの信頼感を深められるという点である。実際、会員としてとどまりたければ公正でなければならなかったし、職業道徳に欠ける者はもはや相互取引のメリットを得られなくなるのであった。
シールはすばやくハリスの構想を理解し、熱意を示すようになった。シールはハリスとともに2人の他の実業家に会うことに同意した。この2人にはハリスが前に話したことがあり、近くの事務所でハリスとシールを待っていた。
2人の実業家はハリスの顧客でもあったが、彼らは既にハリスの構想の何たるかをうすうす感じとっていた。2人は、鉱山技師のガスターバス・ローアと、ハイラム・E・ショーレーという洋服商であった。
4人ともみな一様に都市生活の孤独に辟易して、彼らが後にしてきた村の連帯感あふれる生活に郷愁をおぼえていることを認め合っていた。
こうして舞台はできあがった。ハリスとシールはマダム・ガリのレストランを出て川を渡り、少し歩いてユニティー・ビルディングに向かった。ノース・ディアボン街にあるユニティー・ビルディングの7階でエレベーターを降り、711号室のドアをノックした。ローアとショーレーが2人を待っていた。
小さな事務所で、机と椅子がある程度でがらんとしていたが、このつつましやかな部屋から偉大な社会運動が芽生えようとしていたのである。
2月のその木曜日にローアとショーレーはハリスの新しいクラブに関する説明を一心に聴き、シールに劣らぬくらい熱心になったのである。その歴史的な最初の会合を終えるまでに相当の進展がみられた。みな会員になることにより事業利益が得られることをはっきり認識し、同時に第2回目の会合には、それぞれ友達を連れてくるようにする、と約束しあったのである。第2回目の会合はウルフ・ビルディングのハリスの法律事務所で、2週間後の3月9日に行われることになった。
これがロータリーの始まりである。孤独な4人の人間が、彼ら独自の、彼らなりの交友を求めたのである。ハリスが彼らに申し出たのは、交友はもちろん、それにもまして単純な相互取引という手段を通じて、各会員が互いに大きな利益にあずかれるような、そうしたグループであった。ハリスは当時、【交友と相互の利益】という“2つの動機”以上のことは何ら話題に出さなかった。
1905年といえば、世界は当時、どんな状態にあったでしょうか。20世紀に入ってからは、いつもそうだったといえますが、そのころも急激な変化の時代でした。世界を広く見渡すと、当時は、日本がロシアを破った戦争で、一大海軍国であることを証明したところでしたし、ノルウェーはスウェーデンから分離しました。セオドァ・ルーズベルトがホワイトハウスにがんばっており、レーニンはヨーロッパでの追放生活からロシアに戻って、やがて革命を起こすことになります。
スイスでは、アルバート・アインシュタインという若い物理学者が、相対性理論に関する短い論文を発表しました。これは、永遠に人間の宇宙観を変えたわけですが、一方、シグムント・フロイトという名のオーストラリアの医学者は、人間が人間自身をみる見方を変えつつあったのです。
ピカソはこの年にスペインからパリに移って、華やかな時期が始まり、また、ジョージ・バーナード・ショーの劇『バーバラ少佐』が、ロンドンのローヤル・コート劇場で上演の幕をあけたところでした。
若さに満ちたシカゴの町においても、たいへんな変化の時でした。市になったのは1887年ですが、その前の1871年には、中心部の商業地区を含む4平方マイルが大火事で全焼し、9万人が家を失っていたのです。ところが、それからわずか22年後には、このシカゴが懸命にがんばって、ニューヨーク、フィラデルフィア、ワシントンを抜いて、アメリカ発見400年を祝うコロンビア万国博覧会の開催都市になったのです。
ロータリーが誕生した前後のシカゴは、人口の爆発的増加、とどまるところを知らない工業の発展、そしてひどい労働不安の時代でした。ロータリー誕生の11年前には、全国をゆさぶった寝台車(ブルマン)従業員組合のストがシカゴで起こりましたが、結局、この騒ぎは、グローバー・クリーブランド大統領がイリノイ州知事の希望を無視して連邦軍2,000名をシカゴに派遣することによって、おさまったのです。
また、ロータリーが生まれた翌年には、アプトン・シンクレアが、シカゴの家畜置場(ストックヤード)のおそろしい労働条件を暴露して古典となった小説『ジャングル』を公刊しています。
しかし、前途に希望をもてるような明るい傾向もみえていました。ロータリー誕生の13年前には、シカゴ大学が開設され、また、最初のロータリー・クラブが結成された4年後には、現代建築の巨匠の多くが世に出ました。この新しい大学の近くにフランク・ロイド・ライトがロビー・ハウスを建てていました。またその前には、世界最初の摩天楼が下町に建ち、また、ジェーン・アダムズはハル・ハウスを開いていました。ハル・ハウスは、最初のセツルメント・ハウスと考えられるもので、この町の貧しい人たちを実にいろいろなやり方で助けたところであります
ポール・ハリスが、1940年代に出した【ロータリーへの私の道】で書いているとおり、
「ロータリーが、もっと明るい空の下で、もっと寒暖の差の少ない気候のところで、そして、精神的にも落ち着いた都市で、生まれる可能性もあったのではないか、ということは考えられることですが、しかし一方では、ロータリーのような運動が誕生するためには、50年前に市民の正義を求めるすさまじい戦いが行なわれた、この逆説的なシカゴこそ、もっともふさわしい場所ではなかったのか、と主張する人もたくさんいるのです」
シカゴこそ、まさにふさわしい場所でした。そして、ポール・ハリスこそ、まさにその人でした。彼の伝記のこの抜粋は、ロータリーの運動とその創始者を、一層よく理解する助けになりましょう。
新しいクラブ(まだ呼称は決まっていなかった)の第2回の会合は、ハリスの法律事務所で行なわれ、7人が出席した。第1回の4人に加えて、第1回会合の翌日にハリスが勧誘したハリー・ラグルスとウィリアム・ジェンセン、アルバート・L・ホワイトが出席した。この人々はことごとく、ロータリーの発展に重要な役割を果たす巡り合わせにあった。
新クラブの3回目の会合は3月23日(木曜日)に行なわれた。この時の会合場所は12番街とステート街の交差点に近いシールの事務所であった。
ハリスはグループの中心的存在であったが、この段階で自分が重要ポストにつくのには反対でいつも舞台裏で活動する方を選んだ。彼はシールを会長に、ショーレーを記録係に、ジェンセンを文書係に、ラグルスを会計に指名した。というわけで、ハリスはロータリーの創始者であったが、初代の会長はシールであった。
この3回目の会合で、新クラブの名称が検討されたが、この時の会合が、ロータリーの歴史でもっとも魅惑的で愉快な一章を画している。すでにいくつもの提案が出されていたが、そのうち幾つかが、真剣に討議された。
『ロータリー』(Rotary)という呼称を思いついたのは、ハリスだといわれているが、果たして真実のところは今もってわからない。
クラブの会員がお互いの事務所で、代るがわる一種の交替システムで会合をもっているのに気がついたのはハリスであったといわれている。それではロータリー・クラブと呼んではどうか、ということで『ロータリー』という呼称が誕生したのである。
その当時は、あまりその呼称を気にも留めなかったが、何年もたってから、『ロータリー』という呼称はまさに神から吹きこまれた提案だと言われた。というのは、提案された呼称すべての中で、この『ロータリー』が群を抜いて型やぶりで、しかも最も分かりやすい呼称であったからである。
『ロータリー』という語は他の国の言語には簡単に翻訳できないことが分かってきた。このため、運動が世界中で盛り上がるにつれ、『ロータリー』という呼称も、それをほんの少し変化させた『ロータリア』(‘Rotaria’)のような呼称も『ロータリー・インターナショナル』という単一の意味を表すことが認識されるようになった。
クラブの4回目の会合は4月6日、ハイラム・ショーレーの洋服店で行なわれ、5回目はビル・ジェンセンの不動産業事務所で行なわれた。6回目は5月6日、ラグルスの印刷所で行なわれたが、これが会員の事務所で行なわれる最後の会合となった。その後、会員はシカゴのいろいろな地区のホテルやレストランに集まるようになった。当時のクラブは【交替制の原則】を堅持し、いろいろな場所が代わる代わる使われた。
しかし、今も変わらずシカゴ・ロータリー・クラブの例会場に使われているのがシャーマン・ハウスである。シカゴ・クラブの会員数は急速に増え、ハリスの構想になるこのクラブの成功は確実なものとなった。他の社会運動とは異なり、ロータリーの特徴は、革命的というよりむしろ進化的なところにあり、その点が強味であった。
ロータリーは変化する社会の要求や、あらゆる国民の様々な文化、慣習、生活様式に適合することができた。
ハリスは常にこのことを意識して、一度ならず機会あるごとに、一世代後のロータリーは今のロータリーとは違うものになっているであろうし、そのまた一世代後のロータリーは、さらに違ったものになるであろうと見ていた。
初期には、ロータリーは利己的な運動であるとのレッテルを貼られたが、その批判はある程度までいわれのないことではない。はじめの数年間、シカゴ・ロータリー・クラブのパンフレットには、会員になることによって事業上のメリットが得られることが強調された。
それどころか、事実、会員になる見込みのある人には、【事業上の利益】を材料に勧誘することもよくあったからである。【親睦と友愛】とをモットーにした平穏無事な初期の時代に、ロータリーが事実上のメリットに結び付けて、ロータリー会員の相互取引による内部的な利点に目を向けたのは事実である。
シカゴに現存する記録は、会員間のすべての取引――最初はシカゴ・ロータリー・クラブ会員間の取引、次には、他のクラブの会員との取引――について、それぞれ入念に記録されたことを示している。