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夜 明 け 前
(“ポール・ハリス”―J.P.ウオルシュ著)
1896年、ハリスがシカゴにやってきた当時のアメリカは、全国的に大不況下にあり、シカゴでも、異常なほど不景気であった。市は、1893年のコロンビア万国博覧会の際の、無責任な過剰建設で大打撃を受け、失業者があふれていた。市内の商店は、半数が店を閉め、アパートの多くが空家になり、不正と汚職が堂々とまかり通っていた。
そうした状況下では、生計を立てることは並み大抵のことではなかった。ハリスはまず、弁護士を開業するに必要な免許を取得した。その後、彼はウルフ・ビルディングの7階に小さな数室つづきの事務所を賃借し、余分のスペースを又貸ししたので、自分の事務所の家賃は殆どただになった。
とはいえ、ハリスは看板を掲げて開業するのと、お客を掴むのとは別の事だ、ということに間もなく気がついた。最初は、仕事も大したことはないだろうとは思っていたが、その反面、自分が完全に見放されるようなことがあろうとは、考えてもみなかったのである。当時、シカゴには顧客獲得に奔走する弁護士が2千人もおり、ハリスもその一人であった。彼は間もなく、客をさがす必要があることが分かってきた。
客を開拓するために、ハリスは法廷の研究に時間の大半を費やし、その手続きに精通した。ハリスは、よく深夜まで事例や判例を読んだが、小規模なものでも、事業の態勢を整えるには、長時間を要した。
1898年に、破産法が通過しなかったら、彼はもっと長期間、苦闘しなければならなかったであろう。この立法が、その後数年間も続いた詐欺行為の、異常な流行に火をつけたからである。それというのも、巧妙な弁護士が、彼らの顧客の利益になるような抜け穴を、発見したからである。
こうした詐欺行為が、どんな方法で行なわれてきたか、また、どんな巧妙な方法が、債権者を欺くのに案出されてきたかという点は、それ自体、興味ある研究対象である。にわかに法廷はあふれ、係官は残業して差押え令状や、動産占有回復令状の発行に、大わらわとなり、これが弁護士には、またとない仕事となり、ハリス事務所にもはずみがついてきた。
その後、1898年に設立された、ハリス・アンド・ドッズ法律事務所であった。こうしたパートナーシップを設立する際、ハリスは、つねに代表出資者となり、さらには、アメリカ法曹協会、シカゴ・プレスクラブ、ボヘミアン・クラブ、そして通商協会の会員となって、ますます名声を高めた。こうした組織は、いずれも名門で、今や繁盛しているハリスの仕事を、さらに確固たるものにするのに大きい効用があった。
とはいうものの、ハリスはまだシカゴの生活様式に完全には溶け込んではおらず、特に日曜日とか祝日などには、時として寂しさを感じることがあった。
彼にとって、何よりも楽しかったのは、地方からきた友達を、シカゴの余り知られていない地域に、案内することだった。彼は、人生をあらゆる面から、勉強することが好きでたまらず、社会のあらゆる階層の人々と、知り合えることが、特別な魅力であった。
日曜日には、ありとあらゆる宗派の礼拝に加わった。それでも、相変わらずハリスは孤独であった。多くの知合いがいるとはいえ、実際は、本当に親しい友達は、殆んどいなかったのである。シカゴの公園を、長時間ひとり寂しく散歩した。シカゴの人々は、見なれた故郷の村の人々の顔や声とは、似ても似つかなかった。ウォリングフォードの丘の中腹で、形成された未来像が再びうごめき、もっとも具体的な形をとりはじめた。
男達のための、新しいクラブを思い立ったのは、恐らくは、この頃だったのであろう。他方、その構想はある夏の晩、彼を、夕食に招いてくれた友達と、シカゴの郊外にあるロジャース公園を、歩いていた時に生まれたのだ、という人もいる。
公園を歩きながら、その友人が人に出会うたびに、「ジミー」、「ハリー」などとクリスチャン・ネームで、呼びかけるのにハリスは気づいた。互いに交わす挨拶には、真心があり、歓迎を示す微笑には、うそ偽りがなかった。
ハリスは、真の友人を求めた。人生の喜びを倍加し、悲しみを半減してくれる、そういう友人である。彼の愛した引用句の一つで、いつも机の後ろの壁に掛けていた、エマーソンの言葉がある。
「千人の友人をもつ者には、一人とて、いなくてもすむような友人はいない。」
ロジャース公園を、歩いた時の思いが、幾度となく去来した。公園での、何気ない出会いで見られた、あの屈託のない親しげな雰囲気、軽い冗談を言い合っている姿、そして皆が、まるで互いに旧知の間柄であるように見えたこと。
こうした光景を目にして、ハリスは、どんなに深い感銘を受けたことであろう。しかも、彼らは単に友達であるばかりか、互いに、仕事の上でも取引関係にあるのだ、ということに気づいた。これが、今までハリスが求めて、掴み得なかった、人間の絆というものだったのであろうか。
町の真ん中に、商売上の友人をグループ単位で集めて、定期的に、社交的な会合を開くのも、悪くはなかろうとハリスは考えた。
徐々に、ハリスの夢は実現に近づいていった。バーモントのことを、また想い出していた。そういえば、そこでは様々な店の経営者や商人、知的職業人達がお互いに話しかけ、交友を図っていた。クラブも、同じような形式で成立すれば、一人一人が自分の特定の職業を代表できるのであるから、会員にとっては、非常な利点ではなかろうか、とハリスは考えた。
要するにそれは、【相互扶助クラブ】もしくは、ある批評家がのちに表現したように、【背中を掻き合うクラブ】といったようなものであったが、一つ際立って重要な違いは、“親睦と友愛の精神こそがグループの基礎”となるのであるから、会員はみな“友情”あふれる人間でなければならない。これが、このクラブの理念であり、“善意と理解と奉仕へと発展”していく基礎であった。
ハリスは、祖父母から教わった“寛容”についての教訓を想い起こして、早くから、寛容ということもクラブの理念を構成する必須の要件であると心に決めた。
会員の政治的指向や、宗教的な忠誠心に、制約を加えることなど、決してしてはならず、皆が、互いの信条や、意見に対して、広く寛容でなければならない、と決意した。
もし人間が、その仲間をそのありのままの姿で、受け容れることができないのなら、交友も友愛もありえない、とハリスは認識していた。
本質的に、ハリスが欲したのは、素朴で平穏無事な村の生活と、村人達の、打ち解けた真の友情と、相互扶助の精神とを、広大な都市の社会環境に、移しかえることであった。こうして、お膳立てができあがったのである。ハリスは、漸く自分の考えを、試してみる準備を整えた。
彼は、最も親しい数人の知人に、慎重に打診してみて、彼らがどのような反応を示すかを、確認しようとした。殆んどの人の反応は、好ましいものだった。