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さあ、あなたの番です
(奉仕こそわがつとめM)
ロータリーの真髄は“個人の行動”であります。ロータリーが創り出すものは“人間”であります。特に職業奉仕においてはそうであります。
職業界の指導者たるべきことを要請される趣旨をさとったロータリアンが、いらいらしながら、
「なぜだれかがそれについて何かしないのだろうか?」と尋ねたとしたら、次のように答えればよいのです。
「鏡をご覧なさい。そうすれば、それのできる、そしてそれをしなければならない人をその鏡の中に発見するでしょう」と。
ところが、ロータリアン自身の事務所、店舗あるいは工場のまっただ中に“社会に奉仕する機会”があるのです。
彼はどこから始めるべきでしょうか? 彼の持つ多くの関係の中で、どの特定の部門が最も緊急に配慮を必要としているでしょうか?
それを見いだす一つの方法は【職業奉仕採点表】と呼ばれる一連の質問の中に示されています。これは個人的に検討するための基準表でありまして、国際ロータリーに請求すれば入手できます。これらの質問は明確な答えを要求するよう成文されていますので、もしこれらの質問を正直にそして真剣に取り上げるならば、その人の職業奉仕のどこに欠陥があるかを、だれにでもわからせてくれるでしょう。
採点表を使用するロータリアンの多くは、自分の職業奉仕の何かの面に改善を要することが、その答えの中に強調されているのを発見するでありましょう。そここそ出発点なのです。
けれども、職業的に自分自身に奉仕する過程はここで終わってはなりません。職業上の実務は日に日を継いで続いて行くのです。そして新しい問題がもたらされ、大となく小となく実際の決断が要求されるのであります。改善の必要を認めるだけでは――たとえそれが衝撃を受けるほど強い認識であっても――十分ではありません。単調にも激変にも等しく堪え得る、習性ともいうべき態勢が醸成されなければなりません。
多くのロータリアンは毎日朝の数分間を、奉仕の機会としてのその日の仕事を下検分するための[静かなひととき]と定めております。その人びとは次のように自問します:
「自分の仕事の中でしてはならないことを何かやってはいないだろうか?」「自分のしていないことで、何かやらなければならないことは無いだろうか?」これらの人たちは、自分自身または同僚たちが下す必要に迫られるであろう決断を予想して、これらの決断を社会的有用性に照らして客観的に判断しようと試みるのであります。
如何なる偶発時が起こっても直ちにそのまま適用できる単純な判断の基準は、『我々が考えたり、言ったり、あるいは行なったりする場合の四つのテスト』であります。
1. 真実かどうか
2. みんなに公平か
3. 好意と友情を深めるか
4. みんなのためになるかどうか
『四つのテスト』を創案したロータリアンは、窮境に立っていたある大事業を継続しました。まだその会社が繁昌していたころこの会社に多額の融資を与えた銀行の役員で、その回収はあきらめていた一人は「これほどの破局」に陥った会社が回生したということは、いまだかって聞いたことが無いと言明しました。
それにもかかわらず、その会社の運営にその『テスト』を応用することによって、その事業は支払い可能の域にまでこぎつけました。この『テスト』の要求に合致しない利益を放棄する直接の犠牲は、より能率的な組織、従業員の信頼、および顧客の信用によって十分償われたのであります。
職業奉仕の原則を実施に移すことが、一夜のうちに行い得ると考えてはなりません。四つのテストの創案者は言いました。
「私どもは、株主、従業員、販売業者および顧客に対して、もし我々がテストに沿っていない場合には、私たちに知らせて欲しいとお願いしておりますが、多年にわたる真剣な努力の結果、私どもは、私どもの理想のやっと7割程度に達したと感じております。私どもはもっとよくできなかったことを遺憾に思っております。しかし、四つのテストが本当にどんな意義を持つかということを私どもが次第に学びつつあることが、私にはわかります。」
[共に分かち合う]ということは、新しい方面が同僚によって聡明に実行されるということの保証としてだけでなく、ロータリアン自身の決意と誠実を確認するための手段としてもまた、これに劣らず非常に大切であります。
他の人びととそれらのことを話し合えば、一時の情熱に駆られて目論んだことも、なんらかの検討に付せられることになります。四つのテストの額を自分の事務室に掲げてみんなに見えるようにしているロータリアンは、無言の中にすべての顧客や依頼人に対して、その職業行為を評価するようもとめていることになります。
従業員はそれによって、彼らが雇主から期待し得るものがなんであるかということを、雇主が彼らに期待するものが何であるかということと同様理解することができるのであります。
競争業者でさえも、その業務を「軌道に乗せる」のに一役買うよう呼びかけられるのであります。職業に経験を持つものならだれでも、このような勇敢な分かち合いが、いかなる見地から見ても健全なものであるということを理解し得ないはずはありません。あるロータリアンが言ったように、
「人間関係において、良い実際的な仕事をするに必要な道具はすべてここにそろっているのであります。」
これらの道具に適正な試用の機会を与えて、日々の仕事の上の諸問題やいろいろの機会に、思慮深くかつ徹底的に適用してみていただきたいのです。
「我々は失敗する自由を持たなければならない。フォードは彼の最初の自動車に逆転歯車をつけることを忘れた。エディソンは1度200万ドルを殆ど無価値の発明に費やしたことがある。
観客席には評論家がいっぱいいる。彼らは野球をやらない。彼らは拳闘をしない。彼らは何もしようとしないので、なんらの間違いをも起こさない。
競技場には実行家がいる。彼らは多くのことをしようとするからすぐに間違いを起こすのだ。」
真にロータリーの精神を体得したロータリアンは、このような高度の冒険心をもってその職業を考えるのであります。
『奉仕こそわがつとめ』と言うことについての自分の開眼を他人にも分かつためには、多くのことを試みなければなりません。
時には失敗する危険があるということは、彼を尻込みさせるものではありません。なぜなら彼は、職業における真の成功は試みることにあるということを知っているからであります。このためにこそ彼はこの世の中に生まれて来たのであります。
さあ、あなたの番です。
ロータリアンが「自分で採点」しようと、日ごとの「静かなひととき」を持とうと、あるいは『社会に奉仕』せんとする自分の決意を業務上の仲間たちと分かち合おうと、職業奉仕の理想を行動とならわしに移行させるために彼が用いる方法がいかなるものであろうとも、それは全く彼自身の問題であります。
とはいうものの、ロータリーが、職業奉仕は理論的であるとか、神秘的であるとか、あるいはまた不可解であるとかいう非難を避けようとするならば、どうにかしてこのような移行が実現されなければなりません。
言葉も、輝やかしい通則も、感化力を持つ実例も、さわやかな弁説も、ロータリアンがそれを“活用”しなければなんの役にも立たないでしょう。
職業奉仕は、それが実用に供せられるのでなかったら、饗宴における幽霊みたいな存在になってしまうでしょう。
スペインの哲学者ウナムノはゼゴビアの水道について語っています。
今を去る1800年の、昔ローマ人によって造られたこの水道は、遠い山々から渇ける都会に、冷たい水を送っていました。ほとんど60世代にもわたる人びとがその水を飲んでいました。
ところが、次に現われた世代はこう言いました:
「この水道は全く驚嘆に価するものであるから、我々は子々孫々のためにこれを保存すべきである。我々はその数世紀にわたる働きからこれを解放してやろうではないか。」
ご褒美として休息をそれに与えるために、彼らは現代式水道を建設しました。すると、その古い水道は崩壊しはじめたのです。それは、石灰やセメントを使わずに、荒削りの花崗岩の石材から造られていましたので、数世紀にわたる沈殿物が自然のモルタルとなっていたのです。ところが太陽熱はそれをボロボロにしてしまったのです。数世紀の年月をもってしても破壊することのできなかったものも、怠惰がこれを崩壊せしめたのであります。
そしてロータリーにおける職業奉仕にも同様のことが言えるのであります。尊重はされても用いられずに、ロータリアンの実際の事業生活から遊離していれば、職業奉仕は不明瞭な、非実用的なものになってしまうのです。
それは崩壊への道をたどるのであります。職業上の実務のむずかしい問題と毎日取り組んで、ためされ、試みられて、職業奉仕は新しい生気と意義をもって発達するのであります。
池に投じた石から生ずる波紋のように、ロータリーの影響は、商業の沈滞した水をかきたてることができるのです。一人一人のロータリアンが職業奉仕をその業務に用いれば、その波紋の線は無数の方向にひろがって行くのであります。それはいますぐ始めることができるのです。
さあ、あなたの番です!