人間関係の開拓者

(奉仕こそわがつとめF)

 

 人間関係を改善させることに関心を持つ者にとっては、長年にわたって発展して来た販売技術から学ぶべきものがたくさんあります。

 

まず第一に、“物を売る”ということはほとんどどこでも行なわれることであります。たとえば、専門職業人の人間関係は、主として患者とか訴訟依頼人とかに対する関係であります。すなわち、これらの人はいわばその奉仕を買ってくれる顧客であります。

すべての生産者は、たとえ職業紹介所とか、広告欄とか、業務書簡のごときものを介してでも、市場を見つけなければなりません。

学校教師にとっては、生徒またはその両親が購買者だと言えましょう。教会の牧師でさえなすべき販売の仕事を持っています。

 

販売ということは相互関係の作用であります。

購買者にも関係するのですが、すべての人はまた購買者なのです。販売人の犯す間違い、その出合う誘惑、更にはその持つ洞察力等は、ある程度すべてこれらの職業の中にも存在しているのです。

 その上、販売人は自分たちの間違いを認める勇気を持っていました。

それゆえ販売上の諸問題に対しては、人間関係の他のいかなる分野におけるよりも熱心な研究がなされたのです。これらの開拓者から学ぶべきことは実に多いのであります。 

 

“なぜ”人びとは買うのでしょうか? 

“何を”顧客は実際に求めるのでしょうか?

“いかに”販売人はそれらの要求を満たすために装備されているでしょうか?

 

その職業が販売ということにはおよそ縁遠い人たちでさえも、これらの設問を、その職業関係の人たちとの関係に適用することができるのです。

 

 “なぜ”人びとは買うのでしょうか?

価格が一つの大きな要素であることは否めません。

合衆国における最近の調査は、衡動的購買、すなわちたまたまその心を惹きつけるものを見たとたんにその場で買ってしまうという買い方、の重要性を示しています。

連鎖店における全購買の5割3分が衝動的購買であります。百貨店の商売の4割2分、食料雑貨店の購買でさえその2割4分までがこの衝動的購買となっております。ところが、値段が高いということほど衝動を押えるものはないのです。

 

 さりながら、価格は決してすべてではありません。

人びとは品質をも求めます。とかく人びとは品質が良ければ少々高く買っても経済的だと考えるのです。

買手の中から、値段が高過ぎるという多くの声を聞いた販売人は、率直にそれを認めることが最良の交渉方法であることを発見しました。

 

 しかし、価値とか品質よりももっと重要なものは“想像”であります。

すなわち、買手の環境、欲求、および動機等の想像であります。

 

 顧客の真の要求を見抜くため、自らを他人の心の中に置きながら想像する力を持つ販売人は、素晴らしいことをなし遂げます。

なぜなら、お客の中には自分で自分の欲求に気がつかないことがしばしばあるからです。販売人は、なんとなく漠然とした欲求を具体化させることができるかもしれないのです。

 

また、商品本来の価値でないものを現実につくり出すこともあります。しかし、商品本来の価値ではないといっても、その販売人の真摯な関心と知覚の結果生み出されたものですから、決して虚構なものではないのです。

 

販売人に取っては、注文を取ろうという気持ちや願望のみを主張して商売をするよりも、顧客の実際に必要とするものを研究する方がはるかにまさっております。

 人びとは利己的でない想像力をもってする呼びかけには、購買をもってこたえてくれます。

 

何を 顧客は実際に求めるでしょうか? 

まず何よりも彼らは自分の意思できめたいのです。

彼らは威嚇されたり、だまされたり、あるいは説得されたりすることは望みません。彼らは、自分で決めるために必要な情報を欲求します。

販売人は、お客を買うように仕向けなけなければなりません。売りつけることはできないのです。

 

必要な情報を、できるだけはっきりと、都合よくかつ完全に提供しようと企てる販売人は、成功する販売人であります。

何もかもぶちまけているという感じを与える店は、顧客の感謝と尊敬を受けます。すべての品物に値段が明瞭に書かれていて、そして始終うるさく決断を迫る売り子につきまとわれることなしに店中歩き回って、自分自身で意思決定をすることができれば、顧客は、情報は一切隠されていないと感じるのです。 

 

もちろん彼らは、売り子がいつも手ぢかにいて、質問に答えたり、経験上の話を聞かせてくれたり、いろいろと比較などさせてくれることを望みます。

しかし彼は、反対の立場にあるものとしてではなく、1人の友人として求められるのです。すなわち、その買物について権威ある根拠を提供してくれる、信頼できる人として求められているのです。

 

品物に対する真の関心と、顧客のためを図る真の心構えを備えることによってのみ、売り子たちは膨張しつつある経済の中で、その枢要な役割を果たすことができるのであります。

 

いかにして品物をより有効に使うか、またどうしたら長持ちするかというようなことを、わざわざ顧客に教える売り子たちは、差しあたってはその売り上げが減るかもしれませんが、

しかし彼らは、いわば信用という微妙な花に水をかけているのであって、やがては連続注文という花が咲くのです。これこそ最も有利な商売であります。

 

ローマ神話の伝説にあるジェナスのように、販売人は、人びとが何を欲しているかについての彼の知識を豊富にするために、常に2つの方向を眺めているのです。

彼は需要者の必要と欲求とを生産者に運ぶ情報の通路であると同時に、買い手に対する専門的知識の源泉でもあるのです。

 

理想的に考えるならば、販売人が、『奉仕こそわがつとめ』だと自覚した時に、これらのことは当然彼らの天職となるはずです。

しかし、実際にはどうでしょうか?“どうしたら”販売人は顧客の欲求を満たすように、しっかりと用意ができるでしょうか?

 

訓練――専門的な訓練――がその答えであります。

販売人の雇主は、彼の先生でなければなりません。先生であるためには雇主は絶対に純正でなければなりません。もし彼が奉仕よりも利益のことを考えているならば――言い換えれば、もし彼がその販売人に“架空な価値を創造”するように圧力をかけているとすれば――たとえどんなことを教えようとも、彼の態度は販売人に反映するでしょう。

 

より良き奉仕に本当に関心を持つ雇主ならば、人びととその欲求に対する真摯な関心によってその販売人を感動せしめることができるのです。

このような真摯な関心こそ販売の秘訣の同義語なのです。販売人は、議論に勝つように訓練されるべきではなく、質問を発するように訓練されるべきであります。――質問を受けることによって相手方は、自分がその取引きの重要な要素であることを感じるのです。

 

販売人はその道の専門家として、すなわち、その取り扱う商品の背景に関する技術的情報の生き字引きとして訓練されるべきであります。――そして、これは決して派手に誇示するためではなく、顧客の実際の欲求と関心とに探りを入れるための必要態勢としてなのです。

 

販売人の訓練は、顧客との接触の体験から来るものが少なくありません。

販売人の横柄、不誠実、あからさまな欺瞞、というようなことは、彼がお役に立とうと熱意を燃やす当の相手の顧客の彼に対する態度いかんを反映しているに過ぎないかもしれません――否、事実そうなのです。

販売と購買とは性格的に相反する操作ではなくて、物の分配をより効果的にするための、本質的に類を同じゅうする共同操作なのだということを、彼は認識していないのです。

 

商売の雰囲気や、町の雰囲気は非常に大切なものであります。

丁寧な態度の一つ一つが、たいまつに火をともして、手から手に伝えられるのです。そして、それがその一人一人のために、より良き人間関係より大きな奉仕の機会に対する新しい展望を照らしだすのです。

 

販売人の問題や目的について言われたことは、そのまま買手に適用されます。買手もまた、その人が信頼できる品物の供給源を確保することに非常に関心を持っております。

彼の主要な仕事もまた、この供給源に対して自分の計画および問題についての正確な知識を提供し、それによって相共にすべての関係者に有利な解決をなし得るようにすることであります。

 

もしすべての事実を買手が打ち明けることができないとしたら、少なくともそれを率直に認めることが必要であります。

彼は決して誇張したり、解答を避けたり、あるいは事実の半面のみを述べたりして、販売人に誤解を与えるようなことをしてはいけません。

なぜなら、このような不誠実は、彼の主要なねらいである心からの協力の雰囲気に致命的なものであるからです。

 

この雰囲気をつくり出すについて、ロータリアンは、単にその個人的行為および影響によってのみならず、クラブの活動を通じても、大なる役割を果たすことができます。

雇主として、販売人として、そして購買者としての立場から、ロータリアンにいわば鏡をのぞかせる一つの興味ある企てが、一つのロータリー・プログラムとして行なわれました。