正直は失われつつあるか?

(奉仕こそわがつとめD)

 

 些細な物事の例は、伝染しやすいものであります。しばしば、それは奇妙な反応を起こします。このような実例の一つに、アメリカの機関車製造業者の話があります。彼は、ある外国政府と大きな契約を、まさに結ばんとしておられました。  

 

彼は、その目的地に行く前に、ロンドンに立ち寄りました。彼は、その商談については、余り喜んではいませんでした。というのは、顧客の主張によって、値段を最低限に下げるために、鋼鉄の下級品を、代用することに決定していたからです。そうすることが、彼の会社がその契約を獲得しうるための、唯一の方法と思えたのであります。

 

 ある朝、ロンドンのホテルを出た彼は、気のきいたスポーツ服になりそうな服地を、ある店のショー・ウィンドーで見つけました。彼がその品物を買って後、ロンドンの一友人が、彼に仕立屋の名前を教えてくれました。そのアメリカ人は、その仕立屋が気に入りました。その店主に会ったとき、更にいっそう気に入ったのです。

 

 ところが、その仕立屋は服地を一目見るなり、そのアメリカ人が驚いたことには、その服を仕立てることを断わったのです。

彼は、粗悪な材料で作った洋服に、自分の店のレッテルをつけるのは、いやだというのです。彼は、服地はすでに買ってしまったことだから、この場合、レッテルをつけなくてもよいではないか、という提案にも応じませんでした。

もし、雇人たちの純真な労力を、ごまかしの材料の上に消費させたとしたら、彼らの尊敬をつなぐことはできない、と仕立屋はいうのです。

 

 服地のひと巻を腕にかかえて、機関車製造業者は仕立屋の店を出ましたが、憤ってはいませんでした。しかし、考え込んでいました。

機関車のネーム・プレートであろうと、洋服のレッテルであろうと、正直な労力と正直な材料の質によって、尊敬をかち得たのであります。はからずも、その仕立屋は、あたかも、彼を見ぐるみ一つの道から抱え上げて、他の道へおろしたかのように、確実に彼を正しい道に戻してくれたのでした。

 

 トーマス・ジェファソンは、「英知と名づける本」の第1章は“正直である”と喝破しました。

そして最近では、ある有名な編集長は、ありふれた正直ということについての教育を、もう一度、学校で復活する必要があると強調しました。

一方、『正直は失われつつあるか?』という問題の討論会で、肯定側に立ったある学校長は、その責任をきっぱりと商業に負わせております。

少年少女は、学校を出るときには、正直と公明正大な態度の、はっきりした基準を身につけているのに、彼らは、その働く場所で行なわれている実際の慣行によって、幻滅を感ずるに至るのだと彼は主張したのです。

 

一人の少女は、ある洋装店に就職しました。――それは高級店でした。彼女が教え込まれたことの1つは、どの衣裳にもみんな3つの異なった値段が、つけてあることでありました。

すなわち、最初に告げるべき最高値段、中値、そして最後の最低値段です。

 

他の一人の少年が、ある食料雑貨店で、内職仕事に雇われたときに聞かされたことは、

目方は余り厳格にするな、つまり、少しでも出し惜しみをしなさい。」ということでありました。

 

 もし、正直が失われてならないとすれば、家庭、学校、教会、同業組合、そして、ロータリー・クラブは、欺瞞と騙りの新しい傾向――あるいはそれは旧来の傾向の再現なのかもしれないが――と闘うべく、常に警戒を怠ってはなりません。

 

 ずっと以前、ロータリーは、【贈賄と秘密手数料】を阻止する努力を、全世界にわたって、盛んに行なっておりました。元国際ロータリー会長の一人は、国際連盟の国際経済会議で、この問題を提起しました。多数の国家が、この罪悪を阻止する法律を制定しました。

【賄賂と秘密手数料】これらの言葉そのものがすでにかび臭く、骨董じみた味を持っています。 

 

 ところが、これらすべての努力にもかかわらず、賄賂と秘密手数料を過去のものだと、だれがいい切ることができるでしょうか。

 

 宝石商からリンゴ栽培業者に至るまで、あらゆる職業において、裏口相場の高値とか、不良品を良品と偽る機会、といったような誘惑が現われれば、いつでも誘惑のほうに、凱歌が挙がっているのである。

 

それは人格の問題である。困ったことに、われわれは不道徳を非難する段になると、とかく、外面だけを見て、内面を見届けないのだ。

個人的なむさぼりというよりも、むしろ世の中には、自分の貪欲の為ではなく、他人から馬鹿だと言われることを恐れて、大勢に従う者も沢山いる。

正直な商人や、不正な訴訟は引き受けないという弁護士が、一人くらいいても、事態を良くすることはできない。というような考えを持っている人たちに対しては、中国の古諺が解答を与えている。

すなわち、中国の格言に、『小さな蝋燭でもともす方が、闇を呪いながら坐っているに勝る』というのがある。」

 

 賄賂と秘密手数料。そんなことは旧式でもなんでもない。ちゃんと近代的な装いをしているのです。

 

 ある日、売手市場で行なわれた“抱き合わせ販売”は、他日品物が豊富になったとき、秘密払い戻しや、割引や、購買者への進物などによって取って代わられ、立場を逆に変えるのです。

 

 しかし、[取引上の習慣]とか[同業者からの圧迫]とかいう、控え目の表現が、人をとまどわせることが少なくなく、その結果、賄賂を目の前にしてもそれに気づかないことになるのです。

 

 それを確かめるのに、2つの方法があります。2つとも常識であり、2つともロータリーの基本である、〔社会観念〕にほかなりません。

その第1は、“公表”するということです。

もし、公表という方法が当惑を生ずるような場合には、第2の決定的な審判法を適用することができます。

すなわち、この贈与またはその他の恩恵の結果、果たして、この職業による奉仕の水準が高まることになるか、それとも低下することになるか、を判断することであります。

 

[正直は最良の政策なり]は、多くの文豪の、期せずして一致した意見でありますが、エマーソンは、更に一歩を進めてこう言っています。

 

「人間は、欺かれはしないかという、馬鹿らしい推測によって、一生を悩まされている。盗人は、自分自身から盗む。詐欺師は、自分自身を欺く。」

正直は能率的であります。不正直は労多く煮え切らず、そして無駄多きものであります。

 

 理想論と商売繁盛との間には、決して避け難い矛盾はありません。

膨張しつつある生産が、以前の品不足の溝を埋めて行くにしたがって、多くのロータリアンたちは、次に示された2つの例の中から、どちらでも自由に選ぶことのできる、しあわせな立場に置かれているのであります。

 

ある製造業者が、特売をやりました。そして、その販売業者は、それをたくさん仕入れました。ところがその後、警告なしに、その品物の広告値段は一割下げられていました。ある大きな販売業者は、なんらの通知さえも受け取らなかった、と言っていました。各店では、できる限りなんとかして、この困難を切り抜けなければなりませんでした。

彼らは、その商品の販売に取り掛かる前から、すでに一割の損失を背負い込まねばならないような高値で、仕入れたことになったのであります。その製造業者は、彼が商店に、その在庫をふやすように仕向けたときには、値下げを考えてはいなかったのかもしれません。しかしながら、販売業者たちは、彼が始めから値下げを予定していたのだといいました。

 

 この出来事によって、破壊された好意というものは、莫大な費用をかけて数ヶ月にわたって広告しても、取り返せるものではありません。

 

同一分野の、ある他の製造業者の取った次のような方針を、これとくらべて見てください。

 

    彼は、ある製品の販売価格を、20ドル下げ得る程度にまで、その生産を上げることができました。販売業者は、その機械の手持ち台数を報告するよう求められました。そして、これに対して、値下げによって起こるべき損失額に相当する小切手が送られました――その額に相当する製品を送る、という約束ではなくて、現金が送られたのです。

 

     この製造業者が、忠実で熱心な販売業者の組織を味方に持っているということは、不思議なことではありますまい。                  

 

“顧客は常に正しいか?” 

商売に携わる人は、大抵1度や2度は、この標語を思索する機会を持っています。ある有名な百貨店の調査によりますと、1万回の取引について75回の苦情のあったことがわかりました。

 

なお、苦情は言わないが、以後は他の店で買物をし、おまけにその友人たちの間に、その店の評判を悪くするようなことを言う、顧客もたくさんあるかもしれないということにも、顧慮が払われました。

その店の売り子に「店よりもお得意さんが大事か、それともお得意さんより店が大事か?」と尋ねたのに対して、9割9分までが間違った解答を与えました。

 

さりながら、苦情という問題になると、この標語が有利な方針であると同時に、実際にもまた真実であるかどうか、ときどき疑問が生じます。

 

ある特定の苦情について、お客の方が実際に正しいと、だれがきめうるでしょうか? あるロータリアンは、これについて満足できるような解答を見いだしました。彼自身の言葉を次に掲げましょう。

 

「約十年前、われわれは、顧客自身で自分たちの苦情を調整させることを、考え出した。それまでは、それは1種のポーカー・ゲームのようなものだった。

すなわち、顧客は何か苦情があると、これくらい取れるだろうと、思う額の2倍くらい要求することがしばしばあった。われわれは、その問題から、全く逃れようとしたり、あるいは、その要求額の4分の1くらいで済まそうとしたりした。そして、散々口論の末、最後にある数字に妥協するのであった。」

 

「われわれの新しい調整法によって、このポーカー・ゲームのようなやり方はなくなった。調整をするにあたってわれわれは、

『彼が、われわれの立場に置かれたとしたら、こういう風に待遇してもらいたいと欲するような、そういう方法で、彼が私どもを待遇してくれること。』

を条件として要求するので、正直でなければならないのは、顧客自身である。」

 

「この方針を採用するまでは、あらゆる原因から来るものを合わせて、われわれの調整は、売り上げの1.5パーセントにも上っていた。新方針採用後の第1年目には、調整は34パーセントに下がり、その後、120パーセントまで下がっている。」

 

「比較的最近までは、商売人は軽蔑されていた。その唯一の理由は、正しいか、間違っているかはともかくとして、卑劣、不正直、悪事、そしてときには、奸策さえもが、商取引の中に入っているという考えにあった。

このことは、商人たちが“黄金律”を実施しようとするようになってから、はじめて変わってきた。

 

 “仲間げんか”や“買手は用心せよ”的風潮に代わって、顧客、供給者、および競争者間の、信頼、率直、および思いやりといったものが、発達したことによって、職業上に、正直な手段を、増進しようと努力しているロータリアンは、大いに意を強くすることができます。

 

不正直は幼稚であり無知であります。