愛 す べ き 敵

(奉仕こそわがつとめB)

 

 これから述べようとする物語の要点は、これが多くの重要な事業を行ない、重要な業績を挙げた、今は故人となった一人の国際ロータリー元会長に、関係があるということではなくて、この話が、目抜き通りに店舗を構え、競争者を持っていた人の、個人的な経験だからであります。その人の口をかりて、話を聞いて見ましょう。

 

「私は、何も競争を嫌う必要はない。この考えが、私に起こったのは数年前のことであった。それまで何年もの間、私が戦って来た男があった。もちろん、私は、彼は詐欺師に相違ないと思っていた。彼の落ち度といえば、私の知る限り、彼が生計を立てるために、私と同じ道を選んだということだけしかなかったが、それにしては、彼は恐るべき男に思えたのである。」

 

「そのうちに、ある考えが私の心に浮かんだ。それはどこかで、ロータリーの関係で、だれかがヒントを与えてくれたのであった。私は、例の男を訪問した。二人は腰をかけて話をした。彼はとても良いやつだということがわかった。」

 

まず第一に始まったことは、私どもは、どこで会っても、すぐ話をするようになったことである。そのうちに、たまたま彼の生涯に、一大悲劇が見舞ってきた。 

彼の子供の一人が、病気で亡くなったのだ。彼は、私を訪ねて来て、

「私は、なぜこんなお願いをする気になったかわからないのですが、どうでしょう、あなたに来ていただいて、私の小さな娘のために、葬儀の説教をしてもらえないでしょうか?」と言った。

 

「私は、彼の敵だったのだ。彼は、私の敵だったのだ。彼は、かつて私が憎むべきやつだと思った男である。われわれは、非常に良い友だちになったが、彼は今もなお、私の競争相手である。彼は、相変わらず全力を尽くして、商売を続けている。それにもかかわらず、私は彼が好きだ。」

 

『競争』という言葉が用いられようと、用いられまいと、ロータリアンは、一般に、健全な商売の対抗がもたらす、活気ある影響を、放棄することは望まないでしょう。

 

個人の自由と業務上の能率は、ともに競争によって育成されるのであります。商売が、生きのびるには、絶えず緊張していなければなりません。

顧客は、どの店をひいきにしようと勝手であります。

より高い価値、より良い品質、より安い値段が、彼の是認を誘うのであります。

選択し得る範囲をひろげることが、お客の歓心を買うゆえんであります。

 

実際的な職業人は、奉仕を改善するのに、大いに役立つ競争から、尻込みすることはないでしょう。

むしろ彼は、その競争者を、一つの大きな競技における、お互いに規則を守って競技をより良くすることに、関心を持つ競技仲間と考え、また、彼の従業員や供給者や顧客と同じように、彼の本当の成功にとって、欠くべからざるものと考えるでありましょう。

 

 お互いの知恵と、企業心を分かち合うことによって、お互いも助け合い、社会にも尽くし得るのに、ある根強い不安が、競争者同志の間に障壁をつくるのです。

真偽の検討もされないで、恨みや疑いが起こって来ます。あるいはまた、競争者がいると、口にこそ出さないが――そして、意識もしないかもしれないが――真の信頼を妨げる、ある種の困惑と、警戒心を感じるのであります。

 

 競争は呪であると主張することは、人生そのものに対して、暗い見解を取ることを意味します。なぜならば、ある意味において、すべての人びとは競争者だからであります。

すべての販売業者は、消費者の愛顧を求めるために競争します。すべての消費者は、最良の品物を入手せんと競っております。人間はだれでも、その仕事において、他のすべての人びとと競争しているのだということは、

「これが、激しい競争者がわれわれを援助してくれるゆえんである。彼は、われわれをして、勝つために必要とされる“余分の努力”を、傾けざるを得ないように仕向けてくれる。われわれは、われわれを勝たせてくれる人を憎むべきであろうか?」

 

 一方、競争は恩恵であるということは、商業界の発達ということによって、常に確認されております。やがては、そこに大商店街ができて、双方に利益をもたらすであろうという構想のもとに、その競争相手に、隣接の地所を売ったという、シカゴの百貨店の古典的実例があります。

同じような考え方が、ミシシッピーのロータリアンたちをして、自分たちが、店を構えている本通りに、空き商店ができるのは困るというところから、一人の競争者を、破産から救わしめる動機となったのであります。

 

 競争者が、お互いに助け合い、彼らの業務上の問題や、やり方について相談し、需要者の利益のため、彼らの商売上の機密を分かち合ったならば、彼らは自分たちの商売が、確固たる土台の上に建てられているという意識を、恵まれること必定であります。

 

「大安売」、「値下げ」、「お徳用」などの言葉に釣られる需要者に、その事実を納得させることは、むずかしいかもしれないが、経験は、価格戦争というものが、だれにも勝利をもたらさないことを、教えております。

だれかが、かすめられているということに、だんだん気がつくにつれ、需要者は、商売全体に対し、そして、とりわけ安売りする商人に対して、信用をなくしてしまうのです。

 

 その半面、競争者の間で行なわれる、生産を割当てて、価格を釣り上げる協定は、普通競争は呪わしいものであるという信念に、端を発するのであります。

かような制限協定は、長期にわたる利益とはならないという証拠は、圧倒的であります。これらの制限協定に関係した、いかに多くの人びとが「第一次世界大戦後の期間」を特徴づけた、あの「インフレーション世界恐慌」の悲惨な循環によって破滅したかを、考えていただきたいのであります。

 

 窓を開いて、常識と勇気のそう快な微風を誘い入れ、そして、競争は呪いではなくて恩恵であること、競争相手は気の許せない仇敵ではなくして、奉仕の同志であることを宣言することによって、自由企業を窒息させている毒気を払いのけるということは、あらゆる地域社会に、あるロータリアンにとって、なんと素晴らしい機縁ではありませんか。

 

 もしも、そこに冷たい疑惑の感情があるとすれば、それが問題の第一歩であり、しかもこれが最も大切な点であります。

 

「僕は彼奴が全く嫌いだ」とチャールス・ラムは、ある時叫びました。「彼奴が嫌いだって?」と、彼の友人は尋ねました、「君は、彼を知ってさえいないではないか」。すると、ラムは「もちろん、僕は彼を知らないさ。もし知っていたら、どうして彼を嫌えるものか。」と答えました。同様のことが競争者についてもいえます。

 

同じ問題と取り組み、同じ背景を持ち、同じ訓練を受け、社会的に有用な同じ職業を選んだ人たちを、嫌ったり恐れたりする理由が、常識的に言ってどこにあるのでしょうか? 

彼らの友情と協力をかち取るために、お互いが譲り合ったならば、どんなにか得るところは大きいでありましょう。

 

 愛すべき敵――競争者というものを、こんな風に考える何よりも深い理由は、恐らく、あらゆる姿における人生の本質そのものに、根ざしているようです。

 すべての職業における最優秀賞は、競争という心気を、さわやかならしめる風を恐れない業者によって、かち取られるのであります。