![]()
職業を品位あらしめる
(奉仕こそわがつとめA)
1905年のころには、学問のある専門職業人と、商売に従事する実業人との間には、長い伝統の懸隔がありました。
ポール・ハリスは、この懸隔をなくす必要を痛感しました。――それは、専門職業人を、あるときは寂しがらせ、またあるときは、いらいらさせる孤独から救い、そして、実業の名誉に対する熱意を持たしめることによって、実業人の職業に尊厳を与えるためであります。
そこで彼は、シカゴにおける、最初のロータリー・クラブの第一回会合に、一石炭商、一裁縫師、および一鉱山技師を招待しました。
それぞれちがう職業、商売、および専門職業の人びとが最初のロータリー・クラブを結成したのであります。職業ということが、最初の選択の原則であったのでありまして、爾来、ロータリーの特異な中核として、今日に伝わっているのであります。
しかしながら、この原則の内容が、長い年月の間少しも変わらなかったと考えてはなりません。
アーサー・フレデリック・シェルドンは、
《成功する販売道は奉仕を捧げるということにかかっているということ、および、いかなる取引も両当事者を利益するものでなければ正当化されない》
という理念に基づく、販売道の一流派を確立したのであります。
彼は、『最もよく奉仕する者、最も多く報いられる』という標語を、ロータリーに与えたのであります。
この概念が発表された途端に、この標語は奉仕の動機を利己的なものにするという反対論が出ました。
アメリカ合衆国ミネソタ州ミネアポリスのロータリー・クラブ会長、
B.F.コリンズが、それに代わる標語として、『超我の奉仕』を提言したので、シェルドンの標語とともに、ロータリー便箋に使用されるようになりました。
この妥協は、1950年のロータリー国際大会において正式に承認されましたが、時折、両標語について苦情がもち出されています。
利益は、自由企業の基本であると信じている人たちは、『超我の奉仕』は、破壊的でないにしても、非現実的であると強く主張し、
また他方においては、これに対し、
無欲の献身こそ、いかなる実業または専門職業にも、成功をもたらす秘訣である、と反論しています。
このような活発な論争は、職業奉仕に対する、ロータリアンの考え方を進めるのに役立ちます。
何故ならば、すべての者が、同じ様な考え方をするところでは、たいして考えを進めることができないし、また進歩も期待できないものです。
職業奉仕の、発展的性格を立証するものとして、ロータリーのこの部門に関する、屡次の公式文の文言より以上に、実質的なものはありません。それは、最初、シカゴのロータリー・クラブの定款に、初めて現われました。(1906年1月)。2つの目的の中、始めのものは次のように書かれています:
「会員の職業上の利益の増進」
このねらいをは、なはだしく利己的だとして非難する前に、ある国際ロータリー元会長の意見を、思い出してみましょう。
「職業奉仕は、事実、初期のクラブで、会員が出したり受け取ったりした、すべての注文書を毎週集計する役目を持った、統計係と名づける役員を置いていたころに始まったのである。しかしながら、かような職業奉仕は、役に立たないことがわかった。とはいえ、私はそれを恥ずかしいこととは思わない。なぜなら、その時ですら“彼らは相互に助け合っていた”からである。
1912年に、この職業奉仕の成文は廃止され、これに代えて、ロータリー・クラブ国際連合会は、クラブおよび個人ロータリアンの指導のために、5つの目的の第一として次のことを採択しました:
1. すべての合法的職業は、尊重されるべきであるという認識を深めること;
そして、ロータリアン各自が、職業を通じて社会に奉仕するために、その 職業を品位あらしめること;
職業に高き水準を奨励すること;
意見と業務の方法を交換することによって各会員の能率を増進すること。
“有益な事業の基礎として奉仕の理想”は、1918年に、ロータリーの綱領の順序配列を再検討する際、提出されたものであります。1922年に、意見と業務の方法の交換をうたった文句を削除し、そして、前記目的の始めの文にある、“合法的”なる文字の代わりに、“有用な”なる文字を入れました。
その後、1935年に至るまでは、なんらの変更も行なわれませんでしたが、その年に、6つの目的は4つに書き換えられ、そして、職業奉仕は新しい文言に表現されたのでありますが、このときの文言は、1951年に職業奉仕が、単一ロータリー綱領の、4つの部門の第2となった時も、そのまま残されたのであります。
2.
実業および専門職業の道徳的水準を高めること;
あらゆる有用な職業は、尊重されるべきであるという認識を深めること;
そして、ロータリアン各自が、職業を通じて、社会に奉仕するために、その職業を品位あらしめること。
かようにして、その発足当時から存在していた職業奉仕という圧倒的な衝動は発展し拡張されたのであります。
他人のために役立つこと――単に、同僚ロータリアンに対してばかりでなく、人類社会を形成する他のすべての人びとに対しても。
他人に対する尊敬――単に、やや明確を欠く「合法的職業」に対してのみならず、すべての「有用な」職業に対して。
他人に対する思いやり――能率増進の目的のためのみならず――それは大切なことではあるが――いやしくも、それが自分の職業の有用性ならびにこれに伴う品位の増大をもたらす限り、いかなる意味においても。
職業の品位は、それに従事する人が、その学問と技能を、自分自身の利益よりも、むしろ他人への奉仕にささげる、という評判から生ずるのであります。
アメリカ弁護士会は、「料金を決定するにあたっては、法律に関する職業は、司法行政の一部であって、単なる金儲けの職業ではない、ということを忘れてはならない。」と宣言しております。
医師たちは、「専門職業は、人類に差し伸べることのできる奉仕をもって、その第一目的とするものであって、金銭的報酬は、2次的考慮でなければならない。」という声明に署名しております。
『超我の奉仕』という崇高なる観念を、真剣にその職業生活に応用する限り、実業人もまた、専門職業の格式を、望むことができるのであります。
一方、職業奉仕に関連する人間関係は、専門職業にとっても、また同様に緊要時であることが、明白なはずであります。彼もまた、その職業分類の受託者として、病人、依頼人、または生徒と、あるいは彼に、必需品を供給する人たちと、更にその仲間や競争者と相共に、奉仕の理想を実行し、“その理想を分かち合う”ように、義務づけられているのであります。
たとえ、彼が自分ではほとんどあるいは全く雇人を持たないとしても、彼はやはり、人びとが、より良い、かつより幸福な雇人となれるよう、助力できる立場におかれているのです。
商売人である、ロータリアンとの交わりにおいて、彼は、いかに彼の職業の品位が、奉仕からもたらされるものであるかに、気づくことでしょう。
「この町においては、医を業とする会員たちの中には、医師道徳に、忠実なることを誓った、自らの宣言に背いている者がある。彼らは、患者の病気を治癒するとともに、そのポケットをもからにしてしまう、と言われている。ロータリー会員の間で、“汚れたリンネルを洗う”手を打つことは、有益な効果をもたらすであろう。」
これらの批判者たちは、開業医に対して、その職業が、いかに社会一般の福祉に貢献しているかを、説明する機会を与えることによって、職業の品位を、防衛せんとしたのであります。防衛のための、かような機会が与えられなかったとしたら、金銭狂にかかっている、少数医師の悪業は、内密に料金の一部を着服したり、不必要な治癒を施したり、あるいは、保険制度を悪用したりするという、一般の非難を正当化する種にされてしまうでしょう。
奉仕ということについて、つとにその名声が確立されているはずの、これら専門職業でさえ、自己を防衛する必要があるとすれば、実業は、どんなにか多くの、疑惑や攻撃にさらされるかもしれません。的は大きく、その上、多くの弱点を持っているからです。
商売というものに対して、培われてきた不信というものは、事実、多くの場合、奉仕の道に横たわる、最も恐るべき障害の一つであります。
そして、ロータリー・クラブは、それに打ち勝つために、尽くし得る戦略的地位を占めているのであります。
実業は、専門職業と同じ地位にまで、自らを引き上げることができるでしょうか――あるいは、それを求めて努めるべきでしょうか?
この問題は、常に討論を生み、成果をもたらしています。現在の傾向は、これに対する答えを得ることを、焦眉の急としています。
利益は依然として、実業という大勝負における、万人の認める報償ではあるが、その報償の量よりも、むしろ「いかにその勝負が行なわれるか」ということの方が、次第に商売人にとって、いっそう重要な関心事となりつつあります。
商業使用人に対する、より高い教育程度の要求と、各分野における技術陣の強化を見れば、専門職業との比較がわかるのであります。
そして、恐らく最も意味深いことは、同業組合の会員になると、商業人の中に、自分の職業の品位のための、共通の忠節と責任の観念が、起こるということであります。
しかしながら、実業と専門職業との間には、相違が一つあります。それは、開業の免許制によって、専門職業は無資格者の競争から、保護されているということです。これに対して、大部分の商業においては、最小の現金または信用を持っておれば、だれでもその勝負に入って行くことができるのであります。
それゆえ、実業人が、その競争者に対して持つ心構えいかんが、職業を品位あらしめる、彼らの努力を成功させるか否かを、左右するのであります。