そろばんと論語

         大阪ロータリークラブ

                                        昭和49・3・22

 

 大阪ロータリー・クラブの草創時代に[土屋元作]という人がおりました。

号を“大夢”と呼びます。大正13年の入会ですが、わがクラブのチャーター・メンバー高原操、高石真五郎など新聞界の大物を育て上げたところの操觚会の大先輩であります。

土屋大夢は毎日新聞にも朝日新聞にも籍を置いたことがあります。また、大正9年、私が国際通信社へ入社した当時には国際通信社の海外新聞部に顧問格としておられたのでよく承知しております。

 

土屋大夢はその号の如く飄飄乎とした大人物で、かつ博識でありました。

大阪ロータリークラブの運営や活動方針に対して常に正論を吐き、会員を教育するところが多く、しかも人柄のよさから会員に大へん親しまれました。徳川幕府後期の農民学者…“二宮金次郎(尊徳)”をば、ロータリー以前に生まれたロータリアンであるとして、日本中はもとよりアメリカ辺りまでも出かけて、吹聴して回わったことは有名であります。

 彼のいうところを少し受け売りいたします。

 

 

め ぐ る 水 車

 

 ロータリーは回転を意味するが、二宮尊徳も常に回転、“循環の訓え”を説いている。

植物は種から発芽、生長、開花、結実、そして再び種に戻って循環する。

循環と関連して【水車の話】がよく出ます。

 

『水車は輪回するものでありますが、人の道も水車のようなものと思えばよい。

その形の半分は水流に順い、半分は流水に逆らって回転する。もし、まるまる水中に入れば回わらずして流さるべし。また、もし水を離るれば回わることあるべからず。』

 

『それ仏教にいう高徳、智識の如く、世を離れ欲を捨てたるは、水車の水を離れたるが如し。また凡俗が、教義に耳を傾けず、義務も知らず、私欲一辺倒に執着するは、水車をまるまる水中に沈めたるが如し。共に社会の用を為さず。』

 

『ゆえに人の道は中庸を尊ぶ。水車の中庸は宜しき程に水中に入れて、半分は水に順い、半分は流水に逆らって運転滞らざるに在り。

人の道もそれと同じように、【天理】に順いて種を蒔き、天理に逆らって草を取る。

欲に随うて家業を励み、欲を制して義務を思うべきなり。』(二宮翁夜話第三節)と言っております。

 

湯 船 の 諭 し

 

 さらに、“二宮尊徳”は、

『人のために善を尽すことが、やがて、自らを利することになる。』

と言って、多くのたとえを挙げております。

 

 有名なのは【湯船の諭し】です。

弟子の福住正兄という人が、箱根の湯本に温泉を持っていましたが、二宮尊徳がある日、この弟子の兄と共に温泉につかり、湯桁に腰をかけながらこういうように教えました。

 『世の中には、お前たちのように物持ちでありながら、十分であることを知らずに、あくまでも利をむさぼり、不足を唱えるのは、あたかも、大人が湯の中に立って屈まないで、湯を肩にかけて「湯船が甚だ浅い。膝にも達しない。」とつぶやき罵しるようなものだ。』

 

『もし、お湯をその望みのように深くすればどうなるか。小人・童子は入浴できなかろう。これは湯船が浅いのではなくて、自分が屈まないのが間違いなのだ。

世間で富者が不足を唱えるのはこのたとえと何処が違おうか。分限を守らなければ千万石ありとて不足に感ずることであろうと。』

 

また、尊徳はこういう風にも論しました。

『湯に入って、お湯を手で己れの方に掻けば、湯は我が方へ来るようだが、すぐ向うへ戻ってしまう。反対に、向うへ手で押しやれば、やがてわが方へ流れ帰る。

少し押せば少し帰るし、強く押せば強く帰る。これが【天理】というものである。』

 

夫れ、仁といい、義というは、向うへ押す時の姿なり。わが方へ掻く時は、不仁となり、不義となる。人体の組み立てを看よ。人の手は、我が方へ掻くことができるが、同時に向うの方へも、押せるように出来ておる。これ人道の元なり。

 

鳥獣は然らず。わが方へ取り込むのみ。人たるもの、先方へ手を向けて、他人のために向うへ押すことを忘れるは、人にして人に非ず、すなわち禽獣なり。あに恥しからざらんや。ただに恥しきのみならず。天理に背くが故に、終には滅亡す。

我、常に奪うは益なく、譲るに益あり。よくよく玩味すべし。』(同第三八節)

 

これはロータリーのモットー He profits most who serves bestと全く同じ意味です。

 

 

 

 

義を先に利を後に

 

 250余年の昔、大丸を創業した“下村彦右衛門翁”は、一行商から身を起した人であるが、一代にして東西の三都ならびに中京に堂々たる店舗を開設し、百貨店業界に覇を競うまでに発展しました。

その標榜した旗印は「義を先にし利を後にするものは栄ゆ」でありました。

 

商売道において、まず志すべきは、富の集積にあらず、利権の獲得にもあらず、取引の誠実と顧客へのサービスであることを道破し、繁栄はこれに伴って後からついてくるものであると訓えたのであります。

 

これまたロータリーのモットーService Above Self”(サービス第一、自己第二、米山梅吉訳)と全く符合する考え方であって、あまりにも似ていることに驚きを禁じ得ません。

 

この店祖の教訓に随って代代経営されてきた大丸が今日の繁栄を続けていることも宜なるかなと申せましょう。既に故人となられたが、大丸社長であった里見純吉、北沢敬二郎両君はわが大阪ロータリークラブの元会長であり、かつ、地区の元ガバナーをもつとめたりっぱなロータリアンでありました。

 

 

   そろばんと論語

 

明治・大正の時代における実業家の第一人者に“渋沢栄一翁”があります。

彼は明治5年に初めてわが国へ銀行制度を導入し、また、通貨制度を改革して、日本に自由主義経済の基礎を築き上げた人であります。

 

渋沢翁は常に「経済と道徳の合一論」を説かれた。そして彼はこれを「論語とそろばん」と表現しました。右手に算盤、左手に論語だと教えて、明治年代の財界人を指導されたことは有名であります。

 

まことに明快な言葉です。

『車に両輪が必要な如く、単なる利益追求の一輪車では走れない。永続きしない。

「道徳」というもう一つの輪を備えた上での、利潤でなければ、多くの人の信頼は得られない。また、真の繁栄もあり得ない。』と説くのでありました。

 

今を去ること51年前、ロータリー国際大会がアメリカのセントルイスで開かれた折りに、大会決議第【23の34号】として可決された。そして、今日もなお依然として生きておるロータリー哲学を諸君はご承知でしょうか。こう言うのです。

 

「根本的にいうと、ロータリーは、自己のために利益を得ようとする欲望と、他人のために尽さねばならぬという義務感との間に、常に起きる心の中の争いを和解して、調整しようとする人生の哲学である。

この哲学はサービスの哲学、すなわちService Above Self(サービス第一、自己第二)の哲学であり、そして He profits most who Serves best(最もよくサービスするものに最大の利得あり)という実践的倫理の原則に基礎をおいている。」

 

 

神 と 獣 の 間

 

 以上、いろいろと引用しましたが、煎じ詰めればみな同じことを、教えているのに気が付くと思います。

結局のところ、人間は神様でないが、動物とは違う。動物のような生き方、つまり、自己本位だけの生き方をすれば、人間とは言えまい。ということであります。

 

近ごろの日本人はエコノミック・アニマルだと西欧人から悪口を言われている。この罵倒に対してわれわれは、率直に、心静かに反省が必要だと思います。

明治百年にして、日本は物質文明の頂点を味わうことができたが、同時に、古い伝統の美しい心、気高い東洋道徳は、日本人の中から失なわれつつある。

片や物質、片や道徳の、秤のバランスが崩れ去ろうとしています。私欲の方が、ピンと跳ね上がり、他人を思いやるサービスの精神が、急降下したのであります。

 

この世代にこそ、ロータリーのサービス精神の運動が、最も要求されて然るべきだと思うのです。著名な実業人が、テレビの画面に、あるいは国会の議場に大勢現われて、糾弾をうけたり、あるいは誤解を招いている如き事件が、将来なおも続くとするならば、日本の自由主義経済体制は、正に危機と言える。体制崩壊の危険なしとは、誰も断言できないでしょう。

 

自己本位に過ぎる、憂うべき現世相に臨んでこそ、「サービス第一、自己第二」をモットーとする社会生活、個人生活に、われわれロータリアンは改めて挑戦すべきではありませんか。